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亀崎の「清月会」


このページは、私に宮流神楽の笛を教えて下さっていた安東和雄師匠のことと、師匠の笛の元になっている亀崎の「清月会」というグループについて書いておきたいと思います。

 安東和雄

安東和雄師匠は、半田市亀崎(中切組地区)で、安東芳太郎(明治29年生まれ)の三男として昭和6年1月6日に生まれました。小さいときから父親から笛を習い、また地元の新美喜郎九からも笛を習っていました。ただ、本格的に笛に熱中し始めたのは終戦直後の昭和22年頃からで、船橋政一の笛に傾倒していました。

その昔(おそらく戦前の話か)、亀崎では、おなじ神楽の曲でも各町内でバラバラの吹き方だったそうです。そこで、船橋政一(明治39年生まれ)が名古屋へ行き、大須の春日神社(上前津交差点北西角)でコンドウエンジロウに師事し、神楽を習ってきました。船橋政一と幸村元一は、その門下の兄弟弟子だったそうです。
船橋政一は、昭和40年代に胃癌が原因で亡くなりますが、昭和20年代から30年代にかけては、強力なリーダーシップで亀崎の神楽界を引っ張っていました。そして、船橋政一の吹き方をもとに間瀬昇が楽譜を作ると、各町内がその楽譜を元に練習するようになり、しだいに亀崎全体が同じ吹き方に統一化されていったという話です。

亀崎では昭和23年頃に神楽保存会が結成され、もちろん安東和雄師匠もその会員となっていましたが、それとは別に、その当時の若手を中心に「清月会」というグループがあり、安東和雄師匠はそれにも参加していました。このグループは、それ以後の亀崎の神楽界に大きな影響を与えた、特筆すべき存在であったようで、次のセクションに詳述します。

安東和雄師匠は、その後(昭和40年代ぐらい?)住居を刈谷に移し、亀崎神楽保存会の会合には顔を出していたものの、亀崎からはやや離れた存在になって行ったようです。ただ、兄の安東文雄氏・フ話では、その当時、亀崎で3本の指に入るぐらい、笛は上手だったそうです。

安東和雄師匠は、いろいろな縁で各地で笛の演奏をしているうちに、昭和50年代(?)頃から知立神社神楽保存会に出入りするようになりました。その当時、知立神社神楽保存会は著名な幸村元一氏が笛の指導をしていましたが、幸村氏が高齢で引退すると、以後は、安東師匠が知立神社神楽保存会を指導するようになりました。そのため、現在、知立神社では、曲名は幸村元一氏が使っていた名前をそのまま使っているが、メロディや洒落の方法は亀崎風という、ハイブリッド状態となっています。

安東和雄師匠は、長期間にわたって知立神社で笛の指導を行い、多くの弟子を育てましたが、残念ながら平成21年12月9日に亡くなられました。


 亀崎の「清月会

亀崎では、戦後の動乱が少し落ち着いた昭和23年頃から、各町内の笛吹きが集まって神楽保存会を立ち上げ、定期的な練習などの活動を始めたようです。ただ、それとは別に、亀崎の若い衆が集まって、熱心に宮流神楽や打ち囃子の練習をしていたグループがありました。それが、「清月会」です。

活動時期は昭和26〜35年ぐらいでしたが、その当時、単に祭礼で笛・太鼓を演奏するというのではなく、宮流神楽の高度な技術を習得しようとしていた先進的な若手が集まっており、現在の亀崎の神楽の曲目や、笛・太鼓の「シャレ」の技術の発展に大きな影響を与えました。

会員は、「亀崎の若い衆で組は問わない」という規定だったようで、当時、9人メンバーがいました。本部は、半田市亀崎の石川順一宅にあり、稽古は、正月と祭礼日以外のほとんど365日、毎晩石川順一宅で行われました。そして、石川順一が結婚するまで、10年近くにわたり続けられました。

稽古場所を提供していた石川順一の家業は「清薫堂」という名前のお香屋で、清月会という名前は、その「清薫堂」の「清」の字と、毎晩稽古中に見える「月」を組み合わせたものに由来しているそうです。

会員は、新美喜朗九など、それまではそれぞれ別の師匠から習っていましたが、皆、清月会に入ってからは、船橋政一の吹き方を基準にして切磋琢磨しま・オた。安東和雄師匠の話では、「会員の中でも、間瀬文雄が亀崎で一番の笛の名手だった」そうですが、基本的に、メンバー全員が、かなりの吹き手だったようです。

会員は、メンバーの証として、「清月」という刺繍の入った博多帯で作った笛袋を持っていました。以下の笛袋の写真は、平成21年に撮った安東和雄師匠のものですが、50年以上も前の集合写真でも、やはり皆ちゃんと持っています。



この清月会は、亀崎で笛が上手な若手が集まって練習していたというだけでなく、ときどき尾張〜西三河地域に出張演奏にも出かけ、他地域とも交流を行っていました。船橋政一と扇屋(質屋)の間瀬氏が、メンバーを何人かずつ連れて行ったそうです。

出張演奏先ですが、名古屋市内は上前津の春日神社、朝日神社、今池の高牟神社、菊井町、水主町など、名古屋市外は豊田の挙母神社、岡崎の菅生神社、豊明の高鴨神社、大府市横根の藤井神社などがありました。

以下の写真は、昭和26年1月2日(1951年)に石川順一氏宅にて撮影したものです。

上段: 間瀬文雄、深谷清吉、黒田勇
中段: 石川順一、山本茂男
下段: 安東文雄、新美一明、安東和雄、間瀬勝次郎






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