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笠寺資料


笠寺資料と呼ばれるものに以下の2つがあります。宮流神楽についての第一級の資料です。
コピーが古く、また崩した字が多いので判読が難しいのですが、現在、両者とも内容をデジタル化中です。

1.熱田神樂 由來沿革並びに参考資料 − 熱田神樂笠寺保存会 昭和31年12月

     保存会が無形文化財の指定を受けるために愛知県教育委員会に提出した書類とその付属資料です。

2.熱田神楽の由来沿革と太々神楽の起源及び曲譜舞振り − 荒川鋭雄書 昭和44年4月

     太太神楽の楽譜と舞の振り付けが中心ですが、熱田神楽の由来や曲名リストもあります。



以下がその本文内容そのものです。旧字体や古い送り仮名は、一部、現代のものに直してあります。
字の崩しやコピーが古いせいで読めない部分は、□□□のように表示しています。
個人情・が問題になりそうな部分は、一部、消去してあります。
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 熱田神楽 由来沿革並びに参考資料 − 熱田神楽笠寺保存会 昭和31年12月

熱田神楽の由来沿革並びに参考事項の集録に当たって、神楽について何等予備知識を持たぬ私に協力下さった、熱田神宮宮庁、七所神社宮司、各神社宮司、熱田、笠寺、呼続、桜、笠寺方面の古老の御方たちに、心から謝意を表します。
熱田神楽が、景行天皇の古代から今日まで、永い歴史と伝統を保ち、音楽、舞踊による日本文化の進展に大きな足跡を印して、偉大な貢献をしたことを知って心から喜ぶものであります。そして、由緒も深い古の文化を永久に保存して、いただきたいと心から祈るものです。

編集者 成田 謙作

熱田神楽笠寺保存会規約

第1条

第2条
第3条
第4条
第5条

第6条
第8条
古代から神宮の祭礼に楽人として奉仕し、熱田神楽の正統を継承し、以って尾張地方里神楽の伝統を□る、この郷土芸術を永久に保存する事を目的とする。
熱田神楽笠寺保存会と称す
事務所を名古屋市南区松城町・・・・・ 荒川鋭雄方におく
会員は楽人、扇人及び有志を以って組織する
役員を左の通りおき、任期を2年とする
  会長1名、副会長1名、会計1名、監査2名、理事若干名、顧問・相談役若干名
会合は秋季に定例総会及び必要に応じて臨時総会、役員会を開く
規約は総会の議決を経ねば変更出来ない

昭和31年11月から33年10月迄の役員、左の如し (数字は年令)

会長
副会長
会計
監査

理事



荒川関三郎 60
稲熊代三郎 62
荒川鋭雄 44
横井・v次郎 65
小菅金蔵 65
田村元之助
鏡味金蔵 54
稲熊貞雄 42
二村鋭幸 30
浜野司 30
理事

相談役





顧問
朝見吉郎 24
荒川芳次 27
荒川清吉 85
浅井忠良 68
森島宗七 78
青山甚右衛門 69
稲熊利三郎 65
村瀬初次郎 65
七所神社宮司 伊神亀吉
成田謙作

熱田神楽笠寺保存会会員住所氏名年令

<個人情報保護のため省略。笠寺付近26名、八事2名、島田1名、及び笠寺付近の10才前後の女子10名が記載されている。>

熱田神楽の由来沿革

一、人皇十二代、景行天皇が、紀元783年8月、熱田の宮へ行幸されたので、熱田と松垢島(笠寺、星崎、戸部、山崎、桜、新屋敷村からなる小さな島)の土民は神楽を以って、□□□□の土民は馬の塔(馬の橈とも書く)を以って、天皇の旅情を、お慰めを□したに始まるとの伝説がある。
松垢島は左蔵と称したが之れは、高蔵から熱田の宮に向かって、左に見えるから左蔵と称したとか。
松垢島は作良の□とも称し、復に星崎の庄と称した。その由の一□□が□□□□から、桜村の村名となり、今にその名が残っている。
松垢島は□□一の風光明媚な名勝と言われていた。
日本武尊の歌われたものに、
  用比都伎能 波麻波登袁美能 宇良都多比 多那□許呂須流 袁登痩宇礼斯幾
  (よびつぎの はまはとえみの うらずたい たなごころする えとぞうれしき)
これは年魚市潟(あゆちがた、現在の岩戸町辺り)を歌われたもの。

一、平の将門が東国で謀叛をしたので、朝廷では之れが調伏を布令されたので、尾張の国吾湯市邑(年魚市、あゆち)土民は、熱田大宮、高蔵宮、八劔宮、大福田宮、日割宮、氷上宮、源太神社の七所の霊を受けて島の西南の小高い山に祠を建て、神楽を奏して将門の調伏を祈願した。(承平年間で、今から約千年前)
藤原藤太秀郷等が討征に赴いて、承平3年正月に、将門を征伐した。
将門討伐は終わったが、調伏祈願した祠はそのままにしてお祭りした。天慶年間に現在の所に移して祭り、七所の神の霊をお祭りするから七所神社と名付けた。そして、旧霊地に芝塚を□し、その南に鳥居を建て、鳥居山と称して□跡とした。(現七所神社南二丁位の位置、今から約千十一年前、調伏の神楽は矢車の曲と伝わる)
今尚秋季例祭には、拝殿で太太神楽を奏し、これが終わって鳥居山へ十数台の傘鉾が供奉して神輿の行事が行われる。この道中に奏せられる矢車神楽は、将門を調伏した時に奏した曲と伝えられている。
傘鉾は徳川時代から始められ、傘鉾に使用した現在の緋毛□はオランダ□と称されている。
七所神社は旧□笠寺村の松本・西門・大門・新町・市場・中切・廸間の七字を氏子としている。

一、熱田田中町の大山車にかかる由来
一條天皇の御宇(寛弘七年、今を去る九百余年)に熱田に疫病流行し、男女悉く悩むと云う災厄の年にあう。この時附近の老若は□□を捧げて素戔嗚尊を祀る。南新宮天□社(八劔宮東、□□殿南)に疫神を祀り、神功皇后三韓征伐に行われた空針で魚を釣られたという神占神功皇后空針の秘曲を奏して平癒祈願した。疫病□滅したので其の翌年から傘鉾その他の練物を出して六月五日に熱田神楽を奏して祭典を行ったのが例となり、
文明年中(約四百五十年前)田中町は四階建の山車の上へ五間の大松を立てる大山車を建造したが、頂上の四階に備える物は、神功皇空針の秘曲を奏して疫病が□滅したと云う古事にならって、神功皇后が釣をなさる造物を備え、神楽は空針で魚を釣る神占をする時奏せられた秘曲を奏することにした。
現在、この秘曲を吹けるものは、熱田神楽の皆伝者荒川関三郎、稲熊代三郎の両人以外に無い。(本会の正副会長)

一、神楽の始祖
四十五代聖武天皇の御代、熱田に生まれた熱田浜主は、仁明天皇の御前に全国の名人が舞楽の技を競う時海内無双と賞され、支那へ雅楽修得の為に派遣された。この人を我国雅楽の始祖と成す。
平安時代(中期)に今に残る雅楽の名作曲者があった。奈良朝時代熱田神楽は□内一と称されていた。本会神楽は其の流れを汲むものである。

熱田神楽の系統

一、(熱田神宮に伝えられた文献は戦災で全部焼失のため)系図・文献が無いので古代からの伝説による外に立証の途はないが、近代の事情は生存の古老に些少聞くを得た。
幕末から明治にかけて、熱田神楽の正統を継承した名手に菊田、宇内、若山の三代に、呼続に稲熊金蔵(天保生で生存すれば百二十才位)、桜に近藤幸七(弘化元年生で生存すれば百十二才)等があった。

一、菊田、宇内、若山等は神宮嘱託の楽人として奉仕して居たが、明治八年頃に神宮の楽人機構が変わったので、それ以来、尾張・三河地方の里神楽指導に□□する事になった。その正統を熱田の鏡味鉦之助が受け続いだ。

一、熱田市場町の加藤鎌吉(文久元年生)は鬼頭惣助から神功皇后空針の秘曲を始・゚数々の秘曲を受継ぎ、本会正副会長、荒川関三郎・稲熊代三郎の皆伝した。

一、本会正副会長、荒川関三郎・稲熊代三郎は、荒川清吉(八十五才、現在本会相談役)、近藤幸七、加藤鎌吉(秘曲伝授者)の指導を受けると共に、熱田神楽正統継承者鏡味鉦之助の指導も受け、昭和十年、熱田神楽正統継承者として皆伝を受けた。

一、本会員は、稲熊・荒川正副会長の門弟及び同門の先輩や相弟子達である。同門の会友は尾張・三河・伊勢北部に多数有る。

一、熱田神楽の正統継承者として皆伝を受ける際に、永久に保存する方法を講ずることを強く要請された。同好の会友は常時その目的の為め、研鑚している。

熱田神楽の什器

面、刀、鍬、鎌、ハタ織のヒ、松火、弓矢、注連縄、鈴、扇、衣装等。

外に、七所神社氏子所有の傘鉾十数台、一字二台以上で七字ある。(松本・西門・大門・新町・市場・中切・廸間)
傘鉾の現在の徳川時代作成の緋毛□はオランダ□と云う。

熱田神楽の分布

一、尾張地方は本会員及び会友によって、約八割の神社の祭儀に楽人として参列。主たる所は、熱田神宮、東照宮、那古野神社、若宮神社、一宮真澄田神社、犬山大県神社、計綱神社、尾張富士浅間神社、国府宮等。

一、三河地方。同門の人達によって過半数の神社祭儀・神事に熱田神楽を奏している。

一、伊勢地方。本会員による主なる神祭儀に参列する神社は、多度神社、桑名護国神社、春日神社、立阪神社等。

熱田神楽の碑

一、熱田神楽 稲熊代三郎・荒川関三郎 碑 (七所神社所在)

一、熱田神楽 荒川関三郎 碑 (笠寺観音境内所在)

熱田神楽の主たる曲目

式しょう


大神楽
道行き
神明神楽

矢車神楽
月合車神楽
天道神楽
佐京神楽
巻藁ばやし
山車ばやし
(編注:「しょう」の文字は、ヘンがシメスヘンで、ツクリは昌)
太太神楽 (十三曲) 謡、扇人舞、男舞がつく (曲名後記)
大管・締太鼓・大太鼓・大つづみ・面・刀・鍬・鎌・ヒ・松火・弓矢・しめ縄・鈴・扇・衣装等を使用
(はやしと云う)二曲 大管使用
歩行中の曲
熱田八丁畷の中央が伊勢大神宮の真北に当たるので、皇太神宮を祭り、永禄天正時代から、虫害・風水害除けの祈願祭を行った。この時使用したと言われる
鳥居山で平将門調伏に使用した曲と伝う
景行天皇の旅情をお慰めした曲と伝えられる
古代から伝わるも由来未詳。神宮文献も戦災焼失、伝説も無し
猿投神社を□□し、熱田神宮から霊を□へる時に作曲したもの
祇園の日に松火をかざして虫除祭を□が、その時に使用の曲
大管使用。熱田にはたくさんの山車があったが、空襲の戦災で全部が焼失した
山車には各々造物があって、それぞれ造物に合せて作曲した
童子
お湯取り
神功皇

本星ばやし
鳴海ばやし
童子の有る山車に使用
右の意と同じ
熱田田中町の大山車の造物は別記の如く三韓征伐の□に空針で魚釣の神占を神功皇后がなされたという古事による秘曲
一曲
二曲

細管使用のはやし曲
はや道
新車
有松
津島下り
七間町
おかめ
からこ
砂取り
天狗ばやし
天道神楽の裏曲
獅子の曲
里神楽の最高とされたもので、神社からの帰途に奏する曲
井戸田の山車に合せて使う曲
(一名早目)賑やかし、神社帰途に使用
神社からお帰途に使用
山車の道中に使用
二曲、山車用
山車用

(表裏)

四曲、熱田の□□□で好で使用した曲
 その他、二十数曲省略。

太太神楽曲名 十三曲
鳥居舞、木綿志手舞、矛の舞、日陰の舞、加津羅舞、鈴竹舞
火□舞、馬船舞、神かかり舞、宴楽舞、細目舞、面白舞、注連縄舞

参考事項

一、神楽は神代に天照大神が天の岩窟に籠らせ給うた時、天細女命が舞うた古事に胚胎して□ると歌われている。神楽という事が必ずしもこの一事から起こった訳ではなく、太古から神前に楽や舞を奏して神□を慰める事はあったであろうが、楽器が不完全で、例えば桶の底をたたくとか、竹切を吹くとか、一定の調子も無く、各人がバラバラにたたくとか、吹くとか云うものであろう。謡や舞にしても、□□の□□□人のそれよりも幼稚で、訳も無く唯飛んだり□□だりして居たものであろうか。
然し、太古の大和民族は神に対する思想が支那や印度や基督教民族とは違って、人間と神との連絡が□□であったため、白□神□を和らげ、之を慰めることは恰も人間の怒りを和らげると同様、何か可笑しいことをして笑わせようとしてやって居たに違いない。そのおもかげを今日の里神楽に見ることが出来る。

二、推古天皇時代から□に大陸文化が伝来し、雅楽においても専ら模倣し、神事儀式に使うよりもむしろ宴遊の具に供する方が多かった。一條天皇が雅楽は神事、祭儀にのみ行う様に整理された。鎌倉時代迄を雅楽の模倣時代と云え□が、庶民階級としては豪華な衣装・楽器を入手する事は出来ぬから、笛・太鼓で事足りる神楽に専念していた。そして、神楽を以って熱田神宮の祭儀に奉仕していた。

三、室町時代から徳川幕末迄を、和楽創造時代と云うべきでなかろうか。代表的なものに、大阪の義太夫、京都の一中節、江戸の新内・清元・河東節の如きがある。其の様な時代においても熱田神楽の名声は□内に響いていた。

四、明治以降は欧化時代となった。熱田神宮は雅楽伝来以来も、神宮祭儀に雅楽と熱田神楽を併用していたが、明治八年に機構改革が有って、神楽は神宮祭事に使用せぬ事になった。この時から、千数百年の昔から□□の森の木の間を□ふた幽□の楽の音は消えたが、太古ながらの素朴な情感の流れを継ぐ土着の人々は永久に保存するために努力してきた。

五、正神楽・里神楽
1.里神楽(草神楽とも云う)の名称は、朝鮮・支那・印度等大陸から雅楽が伝来したので、朝廷や伊勢神宮・熱田神宮・春日神宮・其の他神宮で使う様に成ったので、太古からの大和神楽を里神楽と云う様になった。
2.正神楽は、大和神楽を里神楽と云う様に成ったので、雅楽を正神楽と呼ぶ様になった。今に残る雅楽は七十曲あるが、二十曲は日本人が作曲したもので、他の五十曲は伝来のものであるが、内大□大和風に改編したものがある。

六、熱田神楽の名声高き所以
尾張の徳川家は代々雅楽を奨励したし、東別院始め各寺院が神楽を取入れた事にもよるが、それよりも、往昔から尾張人士は音楽的素養が豊富であり、奈良朝時代から国内の代表的楽人は尾張人士であった事で、うなづける。

七、熱田神宮宮庁で曰く、
往古から日本中に有名であった熱田神楽が消滅する事は残念だから、何とかしてでも永久に保存したい□□。

八、熱田神宮には、重要文化財指定の面が十一面ある。

九、熱田神楽の内、吊太鼓に□つて、田中流と大瀬子流があった。二流共、本会に伝えられている。

無形文化財指定調書 (写)

以下、省略




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 熱田神楽の由来沿革と太々神楽の起源及び曲譜舞振り − 荒川鋭雄書 昭和44年4月

熱田神楽 由来沿革

熱田神楽秘録に付いては、熱田神宮秘蔵の文献が戦災の為め焼失され、立証の道無き□、古老達の伝承を軸に、斯道保存の為め此の書につづる。

一、人皇十二代景行天皇が(紀元783年八月)、熱田の宮へ行幸のみぎり、熱田と松小島の土民は(現在の笠寺一円、星崎、戸部、山崎、桜、新屋敷村からなる小島)、当時神前にて奉納奏上されて居た熱田神楽を以って旅情を御慰め申し上げたと、伝説にある。

一、平の将門謀叛の折、時の朝廷ではその調伏を御布令されたので、尾張の国吾湯市邑(年魚市、あゆち)の土民は、熱田大宮、高蔵宮、八劔宮、大福田宮、□日割の宮、氷上宮、源田神社の七所の霊を御迎へし、島の西南小高き山に祠を建てて神楽を奉納奏上して、其の調伏祈願をした。承平年間(約千三十七年前)、藤原藤太秀郷等が討征に赴き、承平三年正月、征伐を終えた。土民達の喜びも又ひとしを、建てし祠を其のまま御祭りした。その節作曲された一曲が、矢車の曲で有ったという伝説。
右全祠は天慶年間、現在所に移り祭りて、七所神社と名付け、旧霊地には芝塚を残し、南に鳥居を立て、鳥居山と称し、遺跡として現在に□いても大祭には御祭神を奉じ、□□渡御の儀が行われて居る。「千二十六年位前」

一、田中山と神楽
一條天皇の御宇(寛弘七年九百余年前)、熱田の郷に疫病の流行した折、郷の皆々は其の災厄消滅祈る可く、素戔勇嗚尊を祀り、南新宮天王社に疫病神を併せ祀り、熱田神楽の数々を奏上して、平癒消滅を祈った。神恩の加護が程なく、消滅した。皆々は其の神恩に報いる「すべ」として、傘鉾其の他造物を飾り又は曳き廻し、熱田神楽・はやし等を奉納して御祭りを取り行った。
其の後文明年間中(約四百六十五年位前)、田中郷では四階造りの山車の上へ五間余の大松を立てたる大山車をしつらへ、神宮皇后「三カン」征伐出向の御姿を模したる人形(デク)をしつらい、其の節皇后神占いをされたという「カラ針り釣り占い」(から針りにて魚を釣り吉凶を占われたところ大鯛が釣れ、幸先の好きを喜ばれた。)という所作を秘曲神宮功の曲に合わせ、又は他の造物人形(デク)をあしらい、神楽又ははやしに合せて其の所作宜敷く、にぎやかに皆々の手になる太い綱にて曳き、あるき、よろこびの祭姿で有ったが(古老の伝承)、此の名物熱田田中山も戦災の為め消滅した。尚神楽師連中では田中山に乗り神楽奉仕こそ最の格とされて居た。

熱田神楽の系統

幕末から明治にかけて熱田神楽の正統を継承した名門に、熱田神宮神楽座神楽人、磯部家、菊田家、宇内家、若山家が有り、又楽の名手としては、桜の近藤幸七(弘保生れ)、熱田の鬼頭惣助(天保生れ)、熱田の加藤鎌吉(文久生れ)有り。菊田、宇内、若山等は、神宮神楽座神楽人として奉仕して居たるも、明治八年頃、神宮の神楽人機構の変革により、以来、尾張・三河の里神楽の指導育成奉仕に当って居た。
大正初期、其の正統を熱田旗屋町の加藤鉦之助が受け継ぎ、宗家として神楽隆盛の為め励み居たるも、病弱の為め、其の正統を笠寺の荒川関三郎に許した。荒川関三郎は荒川清吉の皆伝門下生なれど、それにあまんぜず、重ねて熱田の加藤鎌吉及び鬼頭惣助に神宮功の秘曲を始め、熱田神楽の神楽曲、はやし曲の全曲を皆伝され、昭和三十一年、熱田神楽笠寺保存会結成と共に其の会長の重職に就き、斯道隆盛と次代をになう若き門下生の育成に励んでいる。
尚、現在熱田神楽隆盛の石づえとして、荒川関三郎の同門の稲熊代三郎(故)の功績をたたえたい。

熱田神楽の曲名及び概要 太太神楽の起源

正徳元年(1711年)冬より、熱田太々神楽御願ひ申し上げ候由にて、同二年二月十四日、十五日に取り行ひ申し候由、是れは本より有来に而は無之。・c島丹後守家にて、内々神楽とて神楽役人はやし来候を形にいたし中揩フうち四五人の催しにて、一社中へ相談いたし候得ば、神官中は皆合点なく新規のこと故、如何とあやぶみ候て納得無之処、無理にさそい合い役所へ願ひ上げ候処、形の有来事に候得ば、神前向よろしき事に候得ば、相勤め申す可くよし相叶ひ、金子参拾両拝借致し上京いたし、神楽の御家、持明院殿、船橋殿、相願ひ候へば、熱田のことに候間をしへ可被下由にて、御両家の御引廻しの家、山邊右近太夫、中村筑後守と申す両人へ、御引付被成、此の両家にて習ひ申し候。山邊殿にてははやし方、中村殿にては舞方を習ひ、後に一所に四家乍ら御出合、おしへ被下則磐戸組と申し神楽十四番程ならひ参り候。
楽器は鞁三丁、笛、太鼓の三色の由に候。舞は男舞人五人、神子は八人にて舞候由。或は神子計り、つれ舞いたし、又は男舞いと神子のつれ舞も御座候。色々神楽の取物とて手に持ち舞い申し候。青白の幣又は扇を持ち、鈴を取り、又は神子は機梭を持ち、男は鍬をかつぎなどの舞い、又は人長の笑い声三度することあり。終りは注連縄とて四手付廻りて後は、各其の座に帰り坏の儀式、諸人目をさまし申し候様に仕り候由。又岩戸飾りとて榊の大枝に鏡、玉、錫をとりかけたる神代よりの故事ある事を以って其の日の神禮勤清め心にいたし人家には中央に立て申し候由。今度、熱田にて似合敷家なく云と申し立て、わざと神前にて行い、諸人の目をさまし申し、たくみと見へ申し候。拝殿と勅使殿の間に管弦の舞台をかり用い、四所の角に鉾を立て、金らん一幅巾八尺なるを、上は直に下は幡手の如くふたつ宛にたれたるを立て申し候由。舞台の上には天幕を横八間長さ十間余に木綿、桐の紋にからくさを染めたるを張り申し候。神紋桐竹なれば、其の略にや。扨て岩戸かざり榊の立所本社御垣の内祭供殿の内を開き、釣殿の所に立ち外より見へ申す様にたくみ申し候由。太々神楽とな候ては、むづかしきさわりもやと存じ候故、内々神楽と先は古名をかまへ、内々の二字漢音にて「ダイダイ」と読み申し言分をたくみ、是れは馬場左京と相談の由にて、此の遠慮は尤なる事に候。其の八幡の幣の神楽、奈良の神楽などまで聞き合せ、久しき工と相見へ申し候。
此の事、松岡宮内太夫時綱に有体に咄にて御座候。宮内太夫は平野三郎太夫女房の兄にて候。故、時綱入魂故、如此に候。巳来此の類の見合にも成る物故、時綱筆三内□出す。

 ・@                        尾張地誌資料所収 尾張国元正 編集筆記
                            昭和四十四年四月 古書 熱田雲見会の報 写す


熱田神楽 曲名 附曲譜舞振 太太神楽の部

(編注:「しょう」の文字は、ヘンがシメスヘンで、ツクリは昌)

御しょう楽十四番 (しょう文別冊)
式正、 鳥居、 加津羅、 神かがり、 木綿志手、 すず竹、 笑楽、
矛、 火処、 細目、 ひかげ、 まふね、 おもしろ、 志免縄

式しょう

  楽譜、準備中


神かがり  右手に中啓を持ち、袖侍機舞

御しょう楽 笛 オヒー にて始まる

舞方は、
右手に中啓を持ち、目入分に構え、舞台中央へ進み、片ひざ立ての姿勢にて待つ
○ ○ (ドン ドン) 太鼓と共に立ち上がり、鬼門の方向へ向かい、中啓を斜め上段に構え、
笛のオヒーと合せ、右足を前方に踏み出すと共に、中啓を正面真横に手をのばし切って下げ押さえ、
笛のオヒーと共に、元の構えに戻し、向きを始めと同じ所作にて、鬼門に向け、笛のオヒーに合せ構え押さえる
この仕草を、いぬい、たつみ、の方角の順に繰り返す
最後に、太鼓のドンと共に、岩戸飾の前へ進み、一礼して控座へ帰り着座、軽く一礼して終わる


  男一人、黒面を着け、舞う

御しょう始め
(太鼓、鞁) トントン ボンボン と合わせ打ち鳴らす

舞方は、
□座を立ち、岩戸飾台前に進み、着座一礼の後、矛を取り持ちかつぎ(右肩)、舞台中央にて片膝立ての姿勢にて待つ
舞方は矛をかつぎ左手は左腰にあてて、トコトン トコトン の足拍子

鞁・太鼓 ドーンドン  v v   ○ ○   v v   ○ ○   v v   ○ ○   v v ・@ ○ ○
笛            オッピラ       オッピラ        オッピラ ピイピラ ピイピーラ
繰り返し、又最後に流してドンで切る

宜しく神前に進み二三拍子の後、中央に下り、向きを鬼門の方向に替え、足拍子を止め、矛を右手前左手後に取り持ち、右足一歩を踏み出すと共に矛を上より下に下げ、地面上を横左右に大きく祓い(三四)、足を引き戻しながら元に肩にかつぎ、足拍子 トコトン トコトン トコトコトコトコ トン トン よろしく繰り返しながら、裏鬼門、いぬい、たつみ、の方角の順に繰り返し、中央より神前へ足拍子よろしく進み軽く一礼して、後、なるべく低い姿勢にて前かがみにて、前方広く左右に矛で祓いながら後下がり(祓う時ゆっくり)、舞台後方位置にて、立ち上がり静かに神前に進み、矛を置き一礼して□座へ

楽方は、
鞁・太鼓、小さく / / / / //// と入れ、ドンにて立ち上がる
笛はやさしく流す
終い

まふね  男一人、拍子木を持って

御しょう始め
神前に進み、拍子木を取り持ち軽く一礼
舞台後方まで後下がりに下がり、正面に水平に合わせ待つ

拍子木を小さく打ちながら神楽    両手にて上より大きく円を書く形を
チョン チョン チョン チョン チョン                           チョン
ポン  ポン  ポン  ポン  ポン  ○  ○                   ○
オヒー     ヒー    ヒー            オヒー     トヒー

静かに後 中央 廻れ右 拍子木 正面水平
・      ・      ・            ○

左足を出しながら   右足を出しながら     廻れ右する〜
チョンチョン       チョンチョン         チョン   チョン   チョン
        ・  ・           ・  ・    ・      ・      ・    ○
チ、ヒ、ヒヨヒヨ、    チ、ヒ、ヒヨヒヨ、      ヒヨ〜   ヒヨ〜   ヒヨ〜

左足を出しながら   右足を出しながら     中央で太鼓を待つ
チョンチョン       チョンチョン         チョン   チョン   チョン
        ・  ・           ・  ・    ・      ・      ・    ○  ○
チ、ヒ、ヒヨヒヨ、    チ、ヒ、ヒヨヒヨ、      ヒヨ〜   ヒヨ〜   ヒヨ〜

足拍子、拍子木、宜しく、舞台を一巡して神前へ
トコトン チョンチョン トコトン チョンチョン トコトコトコトコ チョンチョン トコトコ チョンチョン 
・  ・  ○  ○   ・  ・  ○  ○   ・  ・  ○  ○   ・  ・  ○  ○   ・  ・
オッピラ        オッピラ        オッピラ  ピィ ピラ  ピッピラ

楽方は、舞方神前まで繰返し一打で鳴らす
        神前にて オヒーー ○ にて切る
舞方は、拍子木を置き、一礼して控座へ   終わり


火処(ほどころ) 男二人 松明を持つ
木綿志手(ゆふして) 男 金幣 女 銀幣 を持つ
加津羅(かつら) 女二人 榊・笹 を持つ
鳥居

火処は松明を高く振りかざし、舞い進む

舞方は、
御しょう始めにて座を立ち、岩戸飾台前に進み、着座一礼、各々作物を取り持ち、舞台後方位置にて待つ
作物に目入合に姿好か捧げて持ち、○ ○ (ドーン ドーン)と先に楽に合すようにすり足にて神前に進み、
一緒に向き合い、一礼をかわし進む。
三歩くらい進み、左右に向きを変え、後方□にて、また左右に曲に向かい合い、一礼してすれ違い、二進また三歩くらい進み、左右に向きを変え、神前へ
楽の オヒーー ○ にて作物を置き、一礼、控座へ

楽方は、
舞方が神前に立つのを待って、楽を止める
この曲は、雨だれの落ちる如き調子で、動きを作る


鳥居、ゆふ志て、加津羅(かづら)、火処庭(ほどころ) 舞曲

  楽譜、準備中


すず竹 女一人 鈴を持つ
御もしろ 女一人 扇を持つ
日加げ 女一人 □(ヘンがシメスヘンかコロモヘンでツクリが要の文字)を持つ
細目 男 鍬 女 梭 を持つ

舞方は、
他曲と同じく、御しょう楽始まりにて席を立ち、岩戸飾り前に進み、着座一礼して、作物を取り立ち上がり、十二三歩、後下りにて下り、構えて ○ ○ (ドーン ドーン) を待つ

すず竹は、
左手は腰に当て、右手にて鈴を右胸前に目入分に持ちて、○ ○ と共に曲に合せながら、静かに鈴を鳴らしながら、<fig>に進み廻る。鈴は、間を取りながら振り鳴らす。 最後は同じ。

おもしろは、
しょう楽始めと共に席を立つ。(以下、他曲と同じ) 待つ。

ひかげは、
左手は腰に当て、右手は扇子を開き、右斜め上段に構える
○ ○ と共に、一二三、一二三、と三間に区切り、太ももの構え、または右上段へ、を繰り返す
以後、他局と同じ

細目は、
男は鍬、女は梭を持つ。舞は、木綿志手、加津羅等と同じ、


笑楽、志免縄

御しょう楽と同時に立つ。(他曲と同じ)

志免縄
但し、志免縄の□に、舞台中央に□人なるも、志免縄に両手でとまり、片ひざ立て姿勢にて待つ
○ ○ と共に立ち上がり、トコトン トコトン 足拍子宜しく、右に廻りつつおどる
オヒー ドン で神前へ、後は他曲と同じ

楽方は、
曲は矛と同じく、オッピラ ○ ○ オッピラ ○ ○

笑楽は、
舞方は、控席にて白面を着け、しょう楽始めと共に、舞台中央にて左右おのおの袖口を「つまむ」と共に、両耳たぼをつまみ持ち、○ ○ にて、頭を前後に動かしながら、とびかける様子にて、矛の舞と同じようにとび廻る
以下、他曲と同じ

太々神楽 附 変曲

この曲は、笑楽、おもしろ、他に用いる

  楽譜、準備中


曲名一覧

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太々神楽
神宮功
熱田神楽道上り
御昇殿
神明神楽
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矢車
月夜車
左京
天登
 〃
御加免
だきつき御加免
唐子
天狗
 〃
五曲


二曲











太管
太管
 〃
 〃
細管
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 〃
太々神楽
でく 舞曲にも使う
神前に上る時
神楽最古の曲
神前にて
神前にて
神前にて
神前にて
神前にて
神前にて
神前にて
神前にて
でく 舞曲
 〃
神前にて
 〃

はやし神楽

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童子
おゆとり
鳴海はやし
本地はやし
早道
新車
和藤内
らん獅子
はしご獅子
津島下り
有松(早目)
七間町
砂取り
棒専はやし
十日恵比寿
□□□□
植田はやし
妓園はやし
五曲

二曲
一曲













巻藁
太管
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細管
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でく 舞曲に使う
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山車曳きの曲
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内最上位
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昔時熱田で使われたる獅子舞の曲
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尾張の国で祭礼はやし曲として伝わっている曲
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