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宮流神楽の伝説 |
◆ 宮流神楽の伝説 (笠寺保存会に伝わるもの) 景行天皇(日本武尊の父で、実在したのなら4世紀前半頃)が熱田神宮へ行幸された時、熱田と松垢島(笠寺付近一帯)の人々は、神楽を演奏して天皇の旅情をお慰めしたとの伝説があります。(熱田神宮史料、笠寺史料) 平将門の乱(933〜940年)が東国で起こったとき、朝廷からその討伐の命令が出され、全国各地で乱の鎮圧と平安を祈願する儀式が行われました。尾張国の吾湯市(年魚市、あゆち)邑の人々も、熱田大宮、高蔵宮、八劔宮、大福田宮、日割宮、氷上宮、源太夫宮の七ヵ所の神々の分霊を受け、西南の小高い山に祠を建て、神楽を演奏して将門の討伐を祈願しました。このときに演奏されたのが、「矢車」という曲だったと伝えられています。七所神社の創建は天慶元年(938年)と伝えられているので、その頃のことだったと思われます。 藤原藤太秀郷等が討征に赴いて、将門の乱は鎮圧されましたが、祈願した祠はそのままにして、祀り続けられました。約100年後に現在七所神社がある所に移してお祀りし、七所の神の霊をお祀りするから七所神社と名付けられました。そして、旧霊地には芝塚を作り、その南に鳥居を建て、鳥居山(現七所神社南200m位の位置にある丹八山)と名付けて旧祉としました。(七所神社縁起、笠寺史料) 聖武天皇の時代、尾張浜主(おわりのはまぬし)は、全国の名人が舞楽の技を競った時、最も優れていると賞され、雅楽修得のために遣唐使にて中国へ派遣された。この人が、わが国の雅楽の始祖である。また、平安時代中期にも、今に残る雅楽の名作曲者がいた。奈良時代を通じて熱田神楽は国内随一と賞されていた。本会神楽は其の流れを汲むものである。(笠寺史料) <コメント> 景行天皇は、日本武尊と同じく実在の人物ではなさそうですが、日本武尊ののお妃、宮簀媛命(みやすひめのみこと)は尾張氏の娘であり、話の流れとしては、熱田に来ていてもおかしくはないです。ロマンがありますが、4世紀前半に今と同じような巫女舞や神楽があったかどうかは、かなり疑問です。 七所神社の創建にまつわる話が事実であれば、時代的に見ても、巫女舞と神楽はきっとそこで奉納されたでしょう。しかし、そこで演奏された神楽が、現在の宮流神楽と直接関係があるかどうかは難しいところです。 尾張浜主は、平安時代前期に律令制度と一緒に中国から入ってきた雅楽を集大成し、日本の風土に合うように編曲・作曲し直した人物と考えられています。熱田神宮の神楽座に属していて、若山家の祖であるという話がありますし、熱田神宮の少し北にある高蔵宮(高座結御子神社)にも尾張浜主の石碑もあります。ただ、里神楽ではなく雅楽の方のような気が・・・。 |
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