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熱田神楽 関連の石碑


 七所神社


碑文:
 熱田神楽師
 宗家
 荒川関三郎師
 稲熊代三郎師
 壽碑



寿碑ということで年齢を調べましたが、昭和27年には、荒川関三郎氏は56歳、稲熊代三郎氏は58歳でした。
碑文(原文):
我が国岩戸神楽の□□□傳□□人の神楽笛
明治四十四年□夏より笛曲師□□りし當町の
荒川清吉翁の門下に学び□□熱田町加藤鎌吉翁に
就いて切磋琢磨し其の間神宮御造営御木曳神□□
奉仕すること1ヵ年遂にその秘曲を修得し昭和十年
十一月熱田神楽御遷座祭に奉仕これを記念として
笛曲一切の奥義を伝授せられ爾来東海各地の神社に
奉仕且つ後進の指導に盡力□□□□よる功績の顧り
大なるものあり依り□し両師の寿碑を建立し
梗概□録して以ってこれを不朽に傳□□□
昭和二十七年□□□春陽之□□


 笠寺観音

荒川関三郎氏のお墓の横にありますが、石碑の建立は昭和32年2月となっていますし、昭和31年12月に書かれた笠寺資料にもこの石碑のことが書かれていますので、その頃に作られたことは確かだと思われます。でも、荒川関三郎氏が亡くなったのは昭和46年1月ですし、亡くなる直前の弟子である石川来民造氏の名前も発起人に載っています。
この石碑自体は、当初、荒川関三郎氏自身が建てられたそうで、その後、追加彫りをしてお墓の横に移動したとのことです。

裏側の碑文:

我国岩戸神楽の始めより傳□れる
太々の笛明治四十四年夏十五才に
て師匠笠寺荒川清吉翁の門に学び
以て熱田加藤鎌吉翁に就て切磋琢
磨し太鞁熱田高岸定七翁□□□□
□□神宮神楽座□田翁の□下□□
□□神楽曲並に舞を学び□□□□
一年熱田神宮御造営御木曳神事よ
奉仕一□□□御遷座祭に奉仕しこ
□□記念し四十才春神楽曲一切の
□□□伝授せられ爾来東海各地の
神社に奉仕後進の指導に盡力せら
□□□□□□

昭和三十二酉年二月建立



 津賀田神社

津賀田神社には、熱田神楽顕彰碑として3つの石碑が並んでいます。
右側から順番に、大正14年9月、昭和12年3月、昭和49年10月の建立となっています。

詳しい由来は、津賀田神社の山車・お囃子の由来のページに、書いてあります。

写真の立て札は、その3つの石碑の横に立っているものです。

内容:
 大瀬子流 井戸田神楽連
 熱田神楽 顕彰碑

右側の石碑(大正14年9月建立、1925年)

碑文:
 御神楽
 近藤惣左衛門
 加藤儀蔵
 加藤源三郎
 碑
碑文:
大正十四年九月 発起人
安藤弥右エ門 神谷助次郎 加藤友蔵
福井長太郎 浅井□一 野村菊雄
浅井幸太郎 亀井鉄次郎 亀井銀蔵
神谷源太郎 加藤定次郎


真中の石碑(昭和12年3月建立、1937年)
諸大人之碑

中央の碑文 −> 下記

笛 福井松四郎 立松□蔵
太鼓 近藤弥三郎 渡邉新吉

横井善左エ門 粕谷榮七 ・・コ新三郎
近藤惣左エ門 加藤儀蔵 安藤弥右エ門

浅井駒次郎 竣


裏には、
昭和十二年三月



この碑文に出てくる新車の音源はこちら −> 新車

中央部の碑文の詳細


碑文の内容(原文): 碑文の内容(現代語訳):
當町氏神郷社津賀田神
社ニ於ケル秋季大祭ニ際シ自   (於は手偏)
往昔神慮ヲ可奉村氏擧ツ
テ山車ヲ社頭ニ曳進ス其車
上ニ於テ惠比須大黒ノ二柱ヲ
始メ其他ノ偶人樂ニ應シテ
舞フ就中唐子舞踊ノ曲矢
車ヲ弘化年間松四郎氏ア
ラタニ新車ト称スル笛譜ヲ作
曲セラレ夫レニ對スル太鼓ノ曲ハ是
レ亦弥三郎新吉氏等ニヨリ
テ案出セラレ衆ヲシテ驚嘆
措ク能ハサラシメ爾今々日ニ傳
フ之レ氏等カ功績偉大ナリ若
シ夫レ斯クアラサレハ爭カ此
名曲ヲ得ン依而茲ニ銘ヲ
録シ碑ヲ建設シ以テ悠
久ニ称フ 爾云
この町の氏神様である津賀田神社で行われる秋季大祭の時に、昔から神様に奉納するために村人はこぞって山車を神社の前に引き出しました。

その山車の上では、恵比須大黒の2つの人形を始め、いろいろな人形が音楽に合わせて舞いました。

その中の唐子人形の舞の曲である矢車から、弘化年間(1844〜1848)に、松四郎氏が新たに新車という名前の笛の曲を作曲し、それに対する太鼓は弥三郎新吉氏らが案出し・A人々はとてもびっくりしました。

今日までこの曲が伝わっているのは、彼らの功績が偉大だったからで、もしそのようなことが無かったら、この名曲はここに無かったでしょう。そのため、ここに銘文を入れた石碑を建てて、永久に称えます。


左側の石碑(昭和49年10月建立、1974年)
碑文:
當氏神津賀田神社祭典御神楽囃シ
其ノ伝統ヲ嗣キ奏楽優雅ニ
氏等ノ美技ヲ刻字シ永ヘニ諧フ

笛 加藤定次郎
太鼓 神谷源太郎 亀井銀蔵
囃子 浅井松次郎

亀井鉄次郎 福井長太郎 野村菊雄 浅井駒次郎
加藤泰蔵 神谷助次郎 野村銀助





裏には、
昭和四十九年十月建立
加藤金一


 神官墓地

名古屋市瑞穂区駒場町7丁目(おそらく17番地)に、通称「神官墓地」と呼ばれるお墓があります。これは、江戸時代に熱田神宮の社家であった人々の末裔の共同墓地で、菊田斎女のお墓もこの中にあります。場所の地図は、ここです。

北西角に熱田雲見会という表札がかかった建物があり、その左側から墓地には入れます。
さすがに、お墓の写真を勝手に撮ってはまずいと思うので、写真は出しませんが、菊田斎女のお墓があるところは、航空写真でみるとここのポイント付近です。ただ、子、孫、ひ孫、などの方々のお墓も並んでいますので、あまり勝手に入ってはいけないのかもしれません。


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