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津賀田神社 山車・お囃子の由来


津賀田神社の例大祭は、江戸時代中期(元禄の直後ぐらい)からの長い伝統を持ち、熱田の大山祭りと共に大山が引き出されることで有名でした。しかし、その山車は第2次世界大戦の空襲で焼失し、戦後、こじんまりとした山車を作って祭りを再開したものの、戦前の祭りの賑わいは取り戻せませんでした。

祭りの神楽囃子も、笛や太鼓の後継ぎがなかなか育たず、当時、井戸田神楽連でお囃子の指導をしていた加藤定次郎氏は、この神楽囃子の将来を憂い、昭和33年10月28日に、テープレコードに保存して後世に残そうと、公開録音会を催しました。そのマスターテープがどうなっているのかはわかりませんが、昭和46〜7年頃に、そのマスターテープからカセットテープにダビングしたことのある辻田菊久代さん(井戸田西町出身)から、津賀田神社山車祭りのことをできるだけ多くの人に知ってもらいたいと音源を頂き、このようなホームページを作りました。

神楽囃子は、笠寺系の宮流神楽の、さっきょう(佐京)、さんみつさがり(おかめ)、月合車(月矢車)、天神囃子(お天道)、神明神楽(神明神楽)、猿返し(天狗)、矢車(矢車)などがあり、お囃子の、祇園神楽(祇園囃子)、早目(早目)、新車(新車)、早道(早道)、津島下がり(津島下がり)、道行(道行)、太神楽(一社と二社)、おかめ人形の人形囃子(おかめ)、恵比寿大黒の人形囃子(神宮皇)などもありました。(カッコ内は笠寺での呼び名)音源の一部は、このページの途中に載せてあります。

以下の文章は、昭和33年10月28日の公開録音会の最初の挨拶・途中の説明・終わりのあいさつです。最初のあいさつで、加藤定次郎氏が津賀田神社の山車とお囃子の由来を述べています。音が飛んでいるところや聞き取れないところもありますが、文脈上おかしい部分も含め、できるだけ忠実に書き写しました。漢字がはっきりと推定できない言葉は、あえてひらがなのままとし、人物の名前は、津賀田神社にある石碑によって確定している人だけ漢字で記載しました。

音源を頂いた辻田菊久代さんの話によると、加藤定次郎氏は、眉毛が濃くて長く、いかにも師匠というようなお顔立ちの方だったそうです。また、左利きだったそうで、笛も普通とは反対の持ち方で吹いていたようです。

笛の名手であるばかりでなく、華道・茶道等も大変に達者であったそうで、また、お経を読むのも上手だったという多才な方だったようです。
当時「同行」という集まりがあり、定期的に同行衆の各家を廻って仏壇にお経をあげた後、酒と少々の料理でもてなし、世間話に花を咲かたそうです。娯楽の少なかった当時の年輩者のささやかな楽しみであったのでしょうし、加藤定次郎氏は、その集まりでもお経が上手だったということでしょう。

テープの挨拶を聴いていると、加藤定次郎氏の熱意が伝わってきます。(約50年前に74歳だった方です)

マスターテープ(平成22年に山車庫で発見されました)
他の登場人物は、石碑のページを参考にしてください。


 津賀田神社の山車・お囃子の由来 ( 加藤定次郎氏の声はこちら

本日、当井戸田五町内の町内会長始め有志各位の斡旋により、山車における舞踊人形に合奏する神楽囃子を、テープレコードに鼓吹して後の世に取り残したい希望が2〜3年以前にありましたが、いよいよ本日行うことになりましたことは、感慨無量であります。まず、山車の建立由来を故人の伝説によりここに申し述べて、以後、皆様の興に入れたいと存じます。

そもそも今より250年ほど前、正徳・享保年間の頃と存じますが、元、本井戸田村地域に、現在昭和区天白町を流れておる天白川がありまして、たびたびと増水氾濫して、田畑の被害おびただしく、村内は飢饉に陥りこんるいの状態である故に、村内一決してお政所ご城主に嘆願書を差し出すと同時に、当氏神、若宮八幡社に昼夜一心不乱の祈願を込めましたところ、そのご利益あって、お政所のお聞き済みのご沙汰があって、直ちに川替えが出来ました。今、山崎川として残っておるのが、天白川の川替え跡だということであります。

村内は喜びのあまり、当氏神に、山車をこしらえて曳き、献上することが一決しました。そこで、安藤某という篤志家が発起人となり建立が出来まして、当氏神例祭に、川替え心願成就の山車、または井戸田の行燈(あんどん)山車と号して曳きましたが、後になり、豊年毎に曳くことになり、二百何十年を経過します。

昭和10年、熱田神宮ご遷座祭のとき、熱田町の田中山を始め、他町内の誇りの山車も出て、それに当井戸田山車も参加して、当時名古屋市南区役所前に詰めたち、せつにその誇りを描いたのみに、昭和20年5月、大東亜戦に全焼いたしましたが、その構造は、高さ三十尺有余、長さ二十二尺(注:おそらく十二尺の間違い)、幅が八尺、四輪は楠で厚さが約1尺、差し口が三尺で、寛政6年8月の刻字であります。今より約70年ほど以前に改造せられたものと思います。

その装飾の張幕等で、前代はいろいろありましたが、ぜんたちましたは、安政3年8月新調で、羅紗で織り生地が五色染めであり、内、前面に張る幕の中央に津賀田神社と金文字が縫い付けてありましたが、元の若宮八幡宮が薄々と裏側に透けておりましたが、これは、故人の話では、安政年間の頃、各地ともごしんるい調査がありまして、ときに当氏神は若宮八幡のごしんるいがはっきりせず、証になるものも無く、それより津賀田神社となったとのことであります。その後当村は、安藤弥右エ門氏が寄進で、その前面の幕を、元の如く津賀田神社と金文字を入れてこしらえ、昭和3年御大典のときに、これを張り、めでたく挙行が出来ました。

次に、その山車に備える人形が、恵比寿、大黒、唐子、ざい振りに、おかめさん、お湯取り、しちこ、唐獅子、蛇と、八種ありました。そのうちの恵比寿と唐子を御大典の時に、幕と同時に衣装を新調して寄進せられましたが、安藤弥右エ門氏は、山車に対して寝食を忘れて協力せられましたことは、今もって感謝しております。次に、その人形は、昔は村の有力者ばかりで、舞踊、取り回しをしておられましたが、なかなか中流以下の者では、山車に乗せてもらうことができなんだ、貴いものであった。

また、その人形に合奏する笛太鼓は、当村に福井松四郎という人が笛を吹かれてより以後を聞いておりまするが、以前はわかりません。いわゆる天保年間よりで、太鼓は当村の近藤弥三郎氏の小太鼓に、渡邉新吉氏の大太鼓で、お上手であったとのこと。次に、笛吹きで、傘屋のりゅうぞうさ(注:おそらく立松柳蔵のこと)とかいう人もあったそうだ。その頃は、粕谷榮七氏、横井善左エ門氏、野村新三郎氏の相棒であった。次に、当、近藤惣左エ門、加藤儀蔵、両氏が相棒で、明治28年の日清戦争全勝祝賀の山車を挙行することが、両氏全盛期だと思います。

次に、福井松四郎氏が全盛時代に、8種の人形のうち唐子人形が出来まして、その唐子の踊りに合奏する曲譜を、熱田の宮でわかぎ太夫という禰宜さんと当松四郎氏、両氏で作曲せられて、新車と称して当井戸田の巻き物が曲となっております。その唐子に傍ゆる唐獅子の使い手は、昔はのちぞうさ、明治期以降はじょうたろさゆう順に上手な人が出てきて、その獅子が生きて飛ぶ如くにおいて、祭りだと、庶民の拍手喝さいを得られたことは、今も忘れません。次に、安藤弥右エ門氏の、引継ぎせられて、その獅子を扱われたが、前両氏にも劣らぬ上手であった。この弥右エ門という人は太鼓も好きで、命ある限りむちを離さなかった。次に、笛太鼓に合奏する手拍子つきで、浅井きねはち、明治大正頃まで専属で、次にご子息の浅井松次郎氏が引き継いで扱っておられる。その人も、山車が好きで、祭りの時は、山車百般にわたり協力してくだされ、本年、77歳になられました。

そこで、福井松四郎氏が亡くなられてから、当村に笛吹きも無くなり、その後、明治35年頃まで、長き年間を、他村より松四郎氏の弟子、それぞれ井戸田伝統の笛吹きを依頼して、祭り事その他の行事をさしておりましたが、その不都合幾ばくを悲しみ、当村の篤志家で浅井駒次郎氏の斡旋で、私と亀井鉄次郎氏と習うことになり、そこで、当時、山崎西町、加藤源三郎という笛の先生があって、そこで習われたのが浅井幸太郎氏です。笛の草分けをしてもらい、1ヵ年ほど習いまして、いわゆる加藤源三郎氏に習うことになった。満2ヵ年ばかり毎夜さやりました。

ようやく山車一式を会得しまして、次に、太鼓は、近藤惣左衛門氏に私の同年で神谷源太郎、亀井銀蔵の両氏が習われて、山車一式を会得せられ、現在に及びまするが、私の相棒の亀井鉄次郎はとっくに亡くなり、太鼓の銀蔵氏も老衰のため昨年亡くなり、4〜5年前までは、神谷助次郎、加藤泰蔵等が存命でありました。故に、何とかことは足りましたが、今では、その責任を持つ者は神谷源太郎氏と私だけで、若手で亀井銀蔵の音をできる、加藤金一、浅井仲光(なかみつ)、ひおきゆきお、笛はすいとうたろう、横井あきじろう、野村菊雄氏と、若手で野村かずお、うつもりすすむと、5人ありまするが、後々を何とか責任持って、山車一式の神楽囃子が出来るように期待しております。

しかしながら、古来の山車も以前に述べたとおり、大東亜戦に全焼して、惜しいことになりましたが、今、存在になれば、文化財とも仰がれることと、その面影を偲びます。おって時代も5年過ぎ、昭和25年、当時氏子総代、近藤ひこえもん、加藤さだゆう氏、両氏の発起で、全焼した古来の山車をかたどり、現在の山車をこしらえて、それに備える人形、唐子を、その翌26年3月、神谷源太郎、浅井松次郎と私で、徳島県板野郡大代(おおしろ)(注:現在の鳴門市大津町大代)に、大江巳之助(おおえみのすけ)(参考:Wikipedia)という人形師に依頼して作成し、その衣装は安藤弥右エ門氏の孫で、近藤しんさく氏が寄進せられた。その恵比須人形を、当村の亀井金蔵、奥平一郎とで作成せられ、現在、人形2種と唐獅子が出来ており、昔にちなみ、氏神例祭に挙行しております。重ねて申し上げますが、浅井松次郎氏は、老いを忘れて昔ながらに山車に協力して下さるが、喜ばしいことと思います。これが不思議に、山車に協力して下さる諸氏が先祖の系統を引いた子孫ばかりで、喜ばしいではありませんか。

なお、本日、テープレコードに鼓吹せるについては、私ら2〜3人では頼りなく、同僚で、昭和区天白町八事、浅井忠良、こんどうじんざぶろう、同町池場、近藤敏雄、3氏を依頼して行うことに致しました。

ここに参加せられます、やまぶばがかりは、氏子総代近藤ひこえもん、加藤さだ・・殿、井戸田東町1丁目、同東町2丁目、同西町、同中町、惣作町3丁目、計5町内、町会長および有志各位、特に今年は、惣作町が山車行事当番のために、安藤弥太郎氏、熱誠をこめて右の如く行うことが出来ましたことは、喜ばしいことであります。
以上、山車由来を申し上げて、終わりとします。

昭和33年、10月28日、74翁、笛吹き、加藤定次郎。


 津賀田神社神楽の公開録音会 (昭和33年10月28日)

演奏: さんみつさがり (笠寺のおかめと同じ) −> mp3音源
演奏: 月合車 (笠寺の月矢車と同じ) −> mp3音源
演奏: さっきょう (笠寺の佐京と同じ) −> mp3音源
演奏: 月合車 (笠寺の月矢車と同じ)
演奏: 天神囃子 (笠寺のお天道と同じ) −> mp3音源
演奏: さっきょう (笠寺の佐京と同じ)
  <これがさっきょうという神楽です。次に、さんみつさがりを吹きます>
演奏: さんみつさがり (笠寺のおかめと同じ)
  <これはさんみつさがり。次は、つかいぐるまという>
演奏: 月合車 (笠寺の月矢車と同じ)
  <これは、つかいぐるまで、次は、てんじんばやしをやります>
演奏: 天神囃子 (笠寺のお天道と同じ)
  <これは、てんじんばやしであります。次は、神楽の王と呼ばれる、神明神楽を吹きます>
演奏: 神明神楽 (笠寺の神明神楽と同じ、中助もあり)
  <今度は、矢車を吹きます>
演奏: 矢車 (笠寺の矢車と同じ)
  <今のは矢車でございました。次に、猿返しという神楽を吹きます>
演奏: 猿返し (笠寺の天狗と同じ)
  <これが猿返しという神楽でございます。次は、祇園神楽というのをやります>
演奏: 祇園神楽 (笠寺の祇園囃子と同じ) −> mp3音源
  <今のは、祇園神楽といいます。今度は、早目というをしらしております。これは、通常は有松と申し上げま
  するが、ところによっては早目と言って吹きます。この当村としては、早目で吹きます。>
演奏: 早目 (笠寺の早目と同じ)
  <これは、早目でありました>
  <ただ今より新車という笛を吹きまして、これは唐子の踊りというであります。>
演奏: 新車 (笠寺の新車と同じ) −> mp3音源
  <ただ今のが、新車というて井戸田の大事なお囃子でござります。これからやりまするのは、大前において、
  神おろし神納めというのをやるのが、これを大神楽と申し上げますし、始めます。>
演奏: 大神楽 (笠寺の二社と同じ)
演奏: 大神楽 (笠寺の一社と同じ) −> mp3音源(最初の部分のみ)
演奏: 神明神楽 (笠寺の神明神楽と同じ) −> mp3音源
  <ただ今のが、大前において、神おろし神納めとして、太神楽という名でやりまして、後に付けましたのは
  神明神楽でありまするが、あれはならしとして吹くことになっております。>
演奏: 津島下がり (笠寺の津島下がりと同じ)
演奏: 道行 (笠寺の道行と同じ) −> mp3音源(一部分のみ)
演奏: さんみつさがり (笠寺のおかめと同じ)
  <この恵比寿天、でくを踊らかしまする、この笛を聞いて、お聞かせ願います。>
演奏: 恵比寿を踊らせる曲 (笠寺の神宮皇と同じ)
  <これは、恵比寿様を踊らかす曲で、この恵比寿様については、鯛を釣られるところでございまして、この
  大太鼓が2順まって3遍目のときに、釣られました時に、太鼓ばかりのときがありまするが、そのときが、か
  ら今度は、釣った嬉しさをもってうちに帰られるとこのように、鯛をあちへずりこちらへずりして、喜んで帰ら
  れるときに、海の中から蛇が頭を出して、それを見て、ずっと御殿にお帰りになる、こういうようにすもうであ
  りまして、笛の音は、みな海ののどかなところを吹いたものでありまして、あまり皆様に聞こえても、音が変
  わらんで、興味が無いかし・轤が、なかなかこれは、ことあっての、きもちでい曲であります。
  今度やるのは、やるのは、このやっぱり山車に付き添いました、おかめさんを踊ろかす曲を始めまする。>
演奏: おかめさんを踊らせる曲 (笠寺のおかめと同じだが出し付き)
  <え、これはおかめさんを踊ろかす曲でありまして、たいへん面白うみえまするが、皆様はいかがと存知上
  げます。これは、非常にやまどみんじをとり、山車の専門でこれを踊らかす人がありましたが、今は亡き人が
  なしで、私ひとりでござります。
  ただ今から、このお車の帰りの時は、堤燈祭りの時の帰り道に吹く、これを早道として吹きまするが、これは
  、神楽じゅうのまきもんとして、なかなかこれは大切のもので、覚える人が少ないというようなもので、たび
  たびありましても、たり吹く人が無いが、この巻き物を、一番最後に、ひとつ、きょうあっておきます。>
演奏: 早道 (笠寺の早道と同じ)
  <ただ今のが、早道と申しまして、なかなか長い笛でありまするが、これは一番、神楽の王として奉っている
  曲であります>


 終わりのあいさつ

浅井仲光(なかみつ)という人は、浅井きねはちという手拍子を打たした人の、いわゆるひこにあたりますが、孫の子でござりますからひこにあたります。これも太鼓を習います。それから、ひおきゆきおをいう人があるが、井戸田の土着ではありません。他からござった人だが、なかなか何かと好きでやって頂いております。こんだけの人が、私らの後としてやってもらえるものと思いまするが、まだ十分でありませんで、この後を何とか仕入れ込みたいと希望しております。

それから他に手拍子として、今、浅井きねはちさんを言いましたが、その相続者として浅井松次郎氏という人がありますが、今、ここへも来てみえるけども、この松次郎氏はこの山車については、わがことにつけ何かと全般にわたって、山車をすんでも壊しても、装飾をしても幕を張っても、出てきてやっていただけるが、年は今77にもなってもまだたっしゃでありまするから、まだ10年ぐらいは山車にたずさわってもらえると思って、私らも力にしておるようなわけです。非常に、我々はこの山車についての相談役として尊敬してしとる人でございます。

それから、いろいろと申し述べましたが、この山車の囃し方もこういうようなことで、非常に、後がやってもらえるかどうかというような点から、町内の人もこの山車係りの人も、非常にそれをくいまして、ただ今このテープレコードに鼓吹して、後に残しておいてもらったらどうかということを発起せられた人が、、町内が5つありまして、その5つの町内は、昔は井戸田村でありましたけれども、今はいろいろ戦争前から町内制とういものが始まりましたために、その井戸田の村も8つにまで割れましたが、その8つに割れましたところの5つという町内が寄ってこの山車を例年の通り曳き回すということになっておりまする。

その町内の、と申し上げますると、まず、井戸田町の西町、今は1丁目と申しまするけど、その西町というところに、町内会を取り仕切っていただける、みずのはるいち、その次に、かとうえいじ、これも全町内会をやっております。その次に、浅井金平(きんぺい)、渡邊じょう(じょう=かねへんに常の文字)作、こういうようなお方がこの西町で出ていただきます。全町内会をやっていただきます。次に、東町を申し上げますると、あんどうだいさく、その次に、かめいしょうたろう、奥平一郎、この奥平一郎という人は、この恵比須さんも顔まで彫った彫刻師でありまするから、これは他から来た人だけども、山車に対して非常に熱中して下さるものだから、これは町内として期待している方であります。それから、この中町に移りまして、ただ今の町内を取り仕切っておる人が、こんどうみつるというお方で、次にこんどうけい、それから、昔より代々続いてやまかたとしておられるのが、あさいかぎひろ、こういうようなお方がありまして、その中に、申し遅れておりましたのが、亀井金蔵という人があります。その人が、非常な熱心家で、太鼓叩きの亀井銀造という人の弟にあたりますが、この山車に非常に熱心で、やはりこの恵比寿様を、胴体をおりやつくるで、奥平さん、顔はお前さんが彫れ、というような意味で、この恵比須さんが出来上がったということです。

というような意味で、非常にただ今はご熱心な方がありまして、この山車が曳けることになりまするが、残念ながら以前申し上げた通りに、まだ、笛も太鼓も、・・な人が出来んというような意味で、今日、ここにテープレコードに吹き込んで頂きたいような意味から、我々だけでいきませんから、昭和区の天白町の八事のあさいただよしさん、次にこんどうじんざぶろうさん、それから天白町の池場、そこにこんどうとしおというお方と、みなこれは笛の名跡ばかりでございまするが、毎年、この山車に対して援助して頂いておりますから、本日こういうことならといって、多忙のところを曲げて来て頂きまして、このテープレコードに鼓吹できたということを、私は心から喜んでおりまするが、長く申しまするが、ここんところで、簡単な話を、私が故人の一切を一言申し上げまして、井戸田山車の由来はこうだったというぐらいのもので、おわるわけであります。
昭和33年10月28日、74歳になります、笛吹きで、加藤定次郎と申し上げます。

それから、申し遅れて恐縮でございまするが、まだ町内がふたとこ落ちておりまして、惣作町というがありまして、その惣作町に町内を司るおちあいしんいちろう様始め、安藤弥太郎さん、かとうしんいち、きむらぎぞう、すずきつねじろう、のむらよういち、こういうような人が、惣作町で非常に協力者で期待しております。
それから、東町の2丁目にうらがみのぼるというお方と、これが会長でやっておられる、それから、まんたにしゅう、いとうせいいち、これらの方が非常に山車に対する協力家でありまするが、これで合わせて5町内の山車になっておるということであります。まことに、これを先に申し上げことを落としまして恐縮でごりまするが、以上申し上げて、終わりを告げます。


 参考

加藤定次郎の新聞記事



井戸田の山車の写真

http://www.a-unicorn.co.jp/unicorn/uni-kenbun/19961020idota-sakurahonmachi-tobe-yobitugi/
19961020idota-sakurahonmachi-tobe-yobitugi.html


を見ると、昭和25年(1950)に再建された山車の写真があります。
昭和48年頃に引き出されたのが、最後だったとの話です。

津賀田神社の南南西約300メートルのところに、長福寺というお寺がありますが、そのすぐ南西側にある小屋に、この山車は静かに眠っています。
その小屋は、昔は青年団が使用していたもので、一度も出動したことがないと思われる旧式の手押しポンプ(?)を搭載した小型消防車の車庫と兼用になっているそうです。

http://toppy.net/nagoya/mizuho6.html
に、その小屋や長福寺の写真があります。


天白川の川替え

天白川の河口付近は、昔は年魚市潟(あゆちがた)とも呼ばれた湿地帯でしたが、江戸時代には藩の財政を豊かにするために次々と埋め立てて新田が開発されました。しかし、天白川と鳴海の扇川が合流する牛毛荒井村(現在の南区鳴尾町付近)あたりは、新田の中でも特に低地のため、台風などでしばしば洪水が起こって作物が全くとれず、尾張藩への年貢も出せない状況がしばしば起こりました。

そこで、正徳・享保年間(1711〜1736)の頃、尾張藩はその救済のため、天白川の川筋を現在の平子橋付近から西進させ、山崎川につないで新田地域を洪水から救おうとしました。しかし、つないだ以後、今度は山崎川の方で14年間に17回の堤防決壊による洪水が起こって田畑が流されたので、山崎川沿いの井戸田村の人々は怒って、暴動にまで発展してしまいました。そのため、尾張藩は再び天白川の流れを元の川筋に戻しました。

この津賀田神社の山車の由来の話で出てくる天白川の川替えは、この出来事を指していると思われます。なお、天白川が山崎川に合流していた14年間、元の天白川原にできた新田を「天白古川新田」と言いました。現在、野並にはその新田の名残として「古川」という名の川があります。

参考:
http://toppy.net/nagoya/mizuho6.html
http://www.a-namo.com/ku_info/tenpakuku/pages/tenpakugawa.htm
http://www.daido-it.ac.jp/~chiiki/chimei1.html
http://homepage2.nifty.com/kiyomitu/12rekisi.furukawa.html


笠寺との関連

津賀田に応援に来ていた天白町八事の浅井忠良氏は、笠寺資料を見ていただくとわかりますが、笠寺保存会の会員でもあるようです。昭和31年の名簿では役員の相談役のところに記載されています。昭和31年に68歳ですので、加藤定次郎氏よりも4歳年下ということになります。

また、天白町池場の近藤敏雄氏も、昭和40年代の笠寺保存会の会員名簿に載っているそうです。ただ、その名簿には、加藤定次郎氏や加藤金一氏も会員として載っているようで、会員の定義がはっきりしませんが、いずれにせよ、次第に笠寺保存会との関係を深めて行くようになったことは確かなようです。

笠寺保存会の年長の方たちの話では、昭和40年代は笠寺保存会から毎年数人のメンバーが手伝いに行っていたそうです。そのため、現在でも、笠寺保存会にはこの津賀田の「新車」がレパートリーのひとつとして伝わっています。

この「新車」だけは津賀田神社のオリジナル曲のようですが、他の曲はすべて熱田神楽(宮流神楽)が伝わっている地域に伝承されている曲で、笠寺保存会にも、すべてそれに相当する曲が伝わっています。


恵比寿のからくり囃子

津賀田神社の山車祭りも長い伝統のある祭りですので、どこで最初に吹き始められたのかはわかりませんが、この恵比寿を踊らせる曲というのは、熱田大山祭りの「神宮皇」という曲、牛立天王祭りの「おかめおろし」と同じ曲です。

熱田大山祭りの田中山には、神・{皇后(神功皇后)の木偶(人形)があり、熱田〜笠寺では、この曲は神宮皇后のからくり囃子とされています。これは、神宮皇后が三韓征伐に出かけたときに、肥前国松浦で年魚(あゆ)を釣り、戦勝を占ったとされる伝説にちなんでいます。神宮皇后が年魚を釣った話が、津賀田では恵比寿が鯛を釣った話になっていますが、話のつじつまがうまく合っているところが面白いです。

牛立天王祭りでは、唐子人形が梅の枝に移って逆立ちをするときに、この曲が使われているようです。


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