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井戸田の大山車 (津賀田神社祭礼) |
井戸田の大山車は、江戸中期から津賀田神社(名古屋市瑞穂区井戸田学区)の祭礼で曳き出されていたもので、熱田大山祭りの田中山・大瀬子山と共に、大きな山車として有名でした。しかし、その山車は第二次世界大戦の空襲で昭和20年5月に焼失し、戦後は、こじんまりとした山車を3台作って祭りを再開したものの、戦前の祭りの賑わいは取り戻せず、山車祭りは平成2年に再び途絶えてしまいました。この約270年にわたる歴史を、資料をもとに振り返ってみたいと思います。 平成33年4月録音の神楽のテープ音源資料は、津賀田資料のページにまとめてありますが、このページでは、その音源のあいさつ文の他に、井戸田山車(やまぐるま)会で保管していた資料や、熱田大山・井戸田大山の模型を作られた古橋正三さんの資料も参考にして、井戸田の大山車の歴史的経緯や山車の詳細について書いてみました。(「大山」は「大山車」を省略した呼称) なお、このページは、井戸田の櫛田博恭さんをリーダーとして行った、「井戸田探検隊」の活動によって解明された資料も、数多く含んでいます。ここで、厚くお礼申し上げます。 ◆ 津賀田神社
津賀田神社の歴史については、いろいろな文献に出てきますが、ここでは尾張志と尾張名所図絵に書かれた文章を、私が適当に現代語訳してみましたので、見てください。
◆ 川替え〜井戸田の山車祭りの起こり
尾張藩はその救済のため、享保13年(1727)に、図の点線部分のように、天白川を現在の平子橋付近から山崎川の落合橋付近に接続し、新田地域を洪水から救おうとしました。しかし、つないだ以後、今度は山崎川の方で14年間に17回の堤防決壊による洪水が起こり、山崎川沿いの井戸田村の人々は怒って、暴動にまで発展しました。そのため、尾張藩は元文6年(1741)に、再び天白川の流れを元の川筋に戻しました。 井戸田村の人々は、長年苦しんできた洪水の源が無くなったことを非常に喜び、安藤某という人が発起人となり山車を建立、津賀田神社例祭で、川替え心願成就の山車、または井戸田の安藤山車と名付けて曳くことになりました。そして、その後、例祭では豊年毎に曳くことになって行きました。 当時バイパス路として作られた水路の一部は、その後も悪水路(灌漑用水の排水路)としてずっと使われ、現在でも、ふたがしてあって上は歩道になっていますが、水路としては残っています。水路の跡は、ちょうど瑞穂区と南区の境界線となっており、地図で見ると経路は分かりやすいです。新瑞橋バスターミナルから落合橋の下を覗き込むと、上の川・中の川・下の川と呼ばれる3つの排水溝の端が見えていますが、このうち中の川と下の川が、この悪水路につながっており、井戸田の山車の始まりと関係のある水路かと思うと、感慨深いです。
◆ 大山車の構造
現存する若宮八幡宮祭の福禄寿車は1676年、筒井町天王祭の湯取車は1658年の建造で、元禄年間(1688〜1703)頃には、すでに名古屋城下の山車祭りはかなり隆盛を極めていたはずですが、それを真似ずに熱田の山車を真似たのは、やはり距離的な近さが関係しているのかもしれません。 熱田大山祭りは、戦国時代初期に始まり、江戸時代初期にはすでに大山車でしたから、井戸田の人々も、きっとよく見に行っていたのでしょう。ただ、熱田の大山は高さ20m近くあり、名古屋型の山車よりは大きいとはいえ、井戸田の大山車は熱田の田中山などよりはやや小ぶりな大山車でした。いずれにしても、スマートで小回りが効いて動きの速い名古屋型の山車よりは、中世の雰囲気を残していることは確かです。 この井戸田大山車は、通常の山車と形が異なり、行燈のように見えたことから、戦前には「行燈山(あんどんやま)」とも呼ばれていました。ただ、これは安藤某が発起人だったため、安藤山と呼ばれていたという説もあるようです。 このほか、古橋正三さんの井戸田大山の模型によれば、台車には「寛政六年甲寅八月」(1794)、引幕には「弘化二乙巳年9月吉日」(1845)、車輪には「明治十丁丑八月」(1877)と書かれていたようです。白黒の写真ではわかりませんが、古橋正三さんの模型(下の写真)によれば、引幕の色は、上段が水色と白、中段が赤と紫と黒、下段が黄と緑と黒というように、とてもカラフルなものでした。遠くから見ると行燈のように見えたことから、戦前には「行燈山(あんどんやま)」とも呼ばれていました。 「尾張年中行事絵抄(1830年成立)」の絵は、戦前の大山車の写真とは引幕がかなり違って見えますが、年代から考えて、その絵は弘化2年(1845)に引幕を新調する以前の姿ではないかと思われます。 ただ、井戸田での言い伝えでは、引幕は「安政3年8月(1856)新調で、羅紗で織り生地が五色染め」となっています。年代に関しては、どちらが正しいのかははっきりしませんが、いずれにせよ11年の差しかありません。それに、弘化2年と書いてあるのは、模型写真の黄・緑・黒の引幕の方ですから、安政3年に赤・黒・青の引幕を、後から追加したという可能性もあります。 また、模型写真の一番上の段は水色と白の引幕は、尾張年中行事絵抄に見える大山の引幕と同じ色合いですから、ひょっとしたらそれを引き継いでいるのかもしれません。
◆ 江戸後期〜明治初期 1740年ちょっとに山車祭りが始まり、1794年に大山車の原型が出来上がり、1850年前後に引幕が新調され、井戸田大山車は着実に進化して行きました。 天保年間(1830〜1843)には、井戸田町内に福井松四郎という笛の名手が現れ、一時代を築きました。 大山車には八種類の人形がありましたが、そのうち唐子人形は弘化年間(1844〜1847)に新たに追加されたものでした。福井松四郎は、わかぎだゆうという名前の熱田神宮の禰宜さんとともに、矢車という曲をベースとして、「新車(しんぐるま)」という唐子人形の舞の曲を新たに作曲しました。 新車の音源はこちらにあります −> mp3音源
江戸時代後期には、津賀田神社は若宮八幡と呼ばれていました。しかし、安政年間(1854〜1859)に、神社の祭神調査があったときに、若宮八幡、つまり仁徳天皇を祀っているという証拠がないとされ、尾張神名帳に載っている「津賀田天神」をもとに、津賀田神社という名前に変更となりました。この経緯は、このページの最初の方の尾張志の文献に書かれています。 井戸田大山車の前幕には、当時は「若宮八幡宮」という文字が書かれていましたが、神社の正式名称が変わっても、結局、大正時代までは書き直すことなく、「若宮八幡宮」のままの前幕を使っていました。 ◆ 明治中期〜大正期
◆ 昭和初期〜空襲で焼失
次に、昭和10年の熱田神宮遷座祭も、大きなイベントでした。 右の写真は、井戸田大山を南区役所(現在の熱田区役所)の前まで曳いて行った時のものです。このときは、熱田の田中山なども南区役所前に参上したようで、盛大な祝賀祭が催されたようです。 昭和初期の笛のメンバーは、大正期とあまり変わりがありませんでしたが、太鼓の方は、新たに神谷助次郎、加藤泰蔵などのメンバーも活躍していたようです。 こうして、戦前までは、毎年大山車を繰り出す祭りが続けられていましたが、残念ながら、昭和20年5月(1945)、第2次世界大戦の時の空襲で焼失してしまいました。 ◆ 戦争直後の山車の復興
河岸の浅井金成宅に保管されていた。昭和24年10月に山車は製作され、一度は引き回されたが、その後は保管場所がないため、2〜3年で廃棄処分となった。 4.堀田 津賀田神社の社務所の地下に、解体された形で保管されていた。祭礼の時には、組み立てて飾り付けを行い、堀田街区(柳ヶ枝一丁目)まで曳いて行った。神楽囃子はテープレコーダーを流していた。いつ頃まで続いていたかは不明。 5.穂波 津賀田神社の社務所の地下に、解体された形で保管されていたらしい。詳細は不明。 ◆ 戦後の本井戸田山車とカラクリ人形 以上、5つの山車があったようですが、ここからは、比較的よく分かっている本井戸田の山車を中心に話を進めます。本井戸田の山車は、高さ3m、長さ3.5m、幅2mと、山車・ニしてはかなり小ぶりなものでしたが、祭りの日には、茶・黒・黄のカラフルな引幕と、たくさんの赤白提灯で飾られました。 第二次世界大戦の時の空襲で、津賀田神社は大部分燃えてしまいましたが、山車の材木は、その燃え残った境内のヒノキを使って作られたと伝えられています。ただ、どの程度使用したのかははっきりしません。 カラクリ人形は、戦後の山車が建造された翌年の、昭和26年に復活しました。神谷源太郎・浅井松次郎・加藤定次郎の3人が、徳島県板野郡大代(注:現在の鳴門市大津町大代)までわざわざ出向き、大江巳之助(おおえみのすけ)という人形師に、唐子人形の製作を依頼しました。また、人形の衣装は、安藤弥右エ門の孫の近藤新作が寄進しました。
この大江巳之助の作った唐子人形は、まだ山車庫に保管されているものの、あまり使われた形跡がありません。当時、かなりのお金を出して作ってもらったものの、からくりの出樋に載せるのには、台座も必要でしょうし、文楽人形では、ちょっと小ぶりだったのかもしれません。 結局、戦後の山車でメインに使われたからくり人形は、井戸田の人が作った人形でした。写真のように、唐子人形と恵比寿人形があり、出樋の駒に取り付ける支持棒が付いています。
このように、昭和30年代初めまでは、戦前の井戸田大山車を良く知っていた人々を中心にして復興が進み、再び祭りの活気を取り戻しつつありました。 ◆ 高度成長期の井戸田山車祭り
ただ、この頃は名古屋南部地域の他の神楽連と互いに協力し合っていたようで、持ち回りの神楽大会というものが時々催されていたようです。昭和42年は井戸田神楽連の順番で、津賀田会館というところで、神楽大会が開催されています。 出場者は、加藤鉦治郎(熱田区市場町)、村上源吉(昭和区天白町八事)、近藤敏雄(昭和区島田池場)他2名、荒川関三郎(南区笠寺)他11名、山田秋義(瑞穂区松栄町)他1名、西川新次郎(中川区下の一色町)他4名、野村銀松(瑞穂区北井戸田)他1名、大矢栄松(熱田区千代田町)他1名、加藤定次郎・加藤金一(井戸田)の計30名でした。 加藤鉦治郎は加藤鎌吉の息子、村上源吉はおそらく昭和33年の公開録音会を手伝った浅井忠良の関連の人、近藤敏雄は公開録音会を手伝った島田神社で笛を吹いていた人、荒川関三郎は笠寺保存会の会長、山田秋義は昭和区上山で神楽をやっていた人、西川新次・Yは新次郎太鼓(尾張太鼓の一派)を始めた人、野村銀松はよく分かりませんが北井戸田にも山車があったのだから笛吹きも居たでしょうし、大矢栄松は熱田で太鼓をやっていた人です。 現在は衰退してしまった地域の人たちも、当時は元気だったようですし、また、尾張太鼓の西川新次郎がこういう席に参加していたとは驚きです。(尾張太鼓のグループも、熱田神楽のレパートリーが2〜3曲あるようです) ◆ 昭和の終わり〜平成の井戸田山車祭り 戦後に作られた北井戸田・本井戸田・河岸の3輌の山車(さらに堀田と穂波にもあって計5輌あったという話もあるが未確認)は、河岸は数年で使われなくなり、北井戸田もほどなく廃車となり、昭和50年代頃には、本井戸田の山車が1輌残っているだけになってしまいました。その最後の本井戸田の山車も、昭和40年以後は、飾り付けをするだけで曳き回しを行わない年も多くなり、神楽の演奏もテープレコーダーの再生で済ませるようになって行きました。実際の山車の曳き回しは、昭和48年、加藤定次郎の何かのお祝い(米寿?傘寿?)で行われたのが最後でした。 昭和58〜59年には、井戸田小学校の山下敏之校長(当時)が小学生約20〜30名に笛を教え、津賀田神社の祭礼で神楽を奉納しました。山下先生は、若い頃に中川区の戸田祭りで笛を吹いていた方で、情操教育の一環として子供たちに笛を教えられたようです。祭り関係者は大変感激しましたが、残念ながら、山下先生が転任すると、後は続きませんでした。
他の地域や博物館などにも声をかけましたが引き取り手はなく、平成11年(1999)、山車は21世紀の世の中を見ることなく解体処分されました。 |
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