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井戸田の大山車 (津賀田神社祭礼)


井戸田の大山車は、江戸中期から津賀田神社(名古屋市瑞穂区井戸田学区)の祭礼で曳き出されていたもので、熱田大山祭りの田中山・大瀬子山と共に、大きな山車として有名でした。しかし、その山車は第二次世界大戦の空襲で昭和20年5月に焼失し、戦後は、こじんまりとした山車を3台作って祭りを再開したものの、戦前の祭りの賑わいは取り戻せず、山車祭りは平成2年に再び途絶えてしまいました。この約270年にわたる歴史を、資料をもとに振り返ってみたいと思います。

平成33年4月録音の神楽のテープ音源資料は、津賀田資料のページにまとめてありますが、このページでは、その音源のあいさつ文の他に、井戸田山車(やまぐるま)会で保管していた資料や、熱田大山・井戸田大山の模型を作られた古橋正三さんの資料も参考にして、井戸田の大山車の歴史的経緯や山車の詳細について書いてみました。(「大山」は「大山車」を省略した呼称)

なお、このページは、井戸田の櫛田博恭さんをリーダーとして行った、「井戸田探検隊」の活動によって解明された資料も、数多く含んでいます。ここで、厚くお礼申し上げます。

 津賀田神社
津賀田神社は、少なくとも南北朝時代から存在していました。その時代には若宮と呼ばれていましたが、当時の祭神はよくわかっていません。江戸後期には若宮八幡と呼ばれていましたが、その名称には、当時からかなり異論があったようです。つまり、若宮という言葉は、「ある神様の子供の神様を祀ってある神社」という意味なのですが、鎌倉時代以後、八幡神が武家の守護神と・オて崇められるようになるにつれて、知らないうちに「若宮」が「若宮八幡」という名前に変わってしまっただけではないかということです。そのため、幕末には尾張神名帳(1364年以前に成立)に載っている「津賀田天神(つかたてんじん)」をもとに、正式名称が津賀田神社という名前に変更となりました。


津賀田神社正面より (平成22年撮影)
この「つかた」という言葉ですが、蛇塚・剣塚・姫塚・大黒塚など、井戸田地域はもともと古墳が非常に多い地域で、そのために「つかた」と呼ばれたと言われています。確証は見つかっていませんが、津賀田神社自体も前方後円墳の上に建っていると言われています。

津賀田神社の歴史については、いろいろな文献に出てきますが、ここでは尾張志と尾張名所図絵に書かれた文章を、私が適当に現代語訳してみましたので、見てください。

尾張志(1843年成立)より (私が適当に現代語訳)

「この本井戸田村にある墓田(つかだ)天神社は、現在は「若宮八幡」という名前で呼ばれているが、本国帳に「愛智郡従三位津賀田天神」と書かれている神社のことである。この神社の地を一般に「長森(ながもり)」というのは、松の木が長く続いているからである。

昔、源頼朝が、この村の片垂(かただり)というところで生まれ、この村にある亀井を産湯とし、この神社を本居神(うぶすながみ)としたと、神社では言い伝えられている。しかし、源頼朝の母は熱田大宮司藤原季範の娘(由良御前)であるし、源頼朝は久安3年(1147)4月8日に熱田の旗屋村で生まれたために、童名を「幡屋の武者王」と言ったという書物もあることから、熱田誓願尼寺が誕生の地であるという説もある。いずれなのかは、はっきりしない。

墓田(つかだ)というのは、この本井戸田村・北井戸田村の2つの村には、特に古い塚が多いから、そういう地名になったと思われる。

この神社の言い伝えでは、祭神は仁徳天皇ということになっているが、これは若宮八幡という呼び名から出てきたものと思われる。なぜなら、この神社はもともと若宮とだけ呼ばれていて、八幡の言葉は付いていなかったが、若宮という名前から連想で八幡という言葉を付けたことは、明らかだと思われる。

若宮八幡という名称は、八幡神(応神天皇)からその若宮、つまり仁徳天皇を指す言葉である。しかし、若宮という名前は、本来、その本社の子神を祭神とする神社を意味しており、名前が同じでもその神社ごとに祭神は違うはずである。そのため、この神社を若宮と呼んでいても、どの神様の若宮なのかは不明である。

本井戸田村古地図 

また、この神社には、大般若経の古い写本が600巻あり、唐櫃に収めて伝来している。これは、後光厳天皇時代の応安元年(1368)11月30日に計画され、応安2年(1369)1月11日に筆をとり始め、応安7年(1374)11月6日に奉納供養をしている。総計600巻のうち奥書きがされているものが117巻あり、元弘(1331〜1334)・観応(1350〜1351)・応安(1368〜1374)・永徳・至徳・明応・寛正などの年号が書かれている。ただし、元弘・観応の2巻はこの応安年間よりも古い写しであり、500年以上前の非常に古いものである。

また、この奥書きに元暦・文治・建久・正治などの年号が書いてあるものが17巻あるが、これらは後世の加筆で墨の色が違っているので注意が必要だ。また、この奥書きのある巻のうち、井戸田郷若宮と書いてあるものが22巻あるが、八幡と書いてるものはひとつも無く、そのことは、もとは八幡という言葉が付いていなかったという証拠でもある。
摂社には、八剣社、源太夫社、富士社、白山社、神明社、諏訪社、田神社、稲荷社、熊野神、山神がある。宮司は、亀井忠太夫という・シ前である。」

尾張名所図絵前編巻五(1844年成立) (私が適当に現代語訳)

「津賀田社(つかたのやしろ)は、北井戸田村にある。仁徳天皇を祭っており、俗に若宮八幡と呼ばれている。本国帳に「愛智郡従三位津賀田天神」と書かれている神社は、この神社のことである。

右大将源頼朝公誕生の地であり、その産土神(うぶすながみ)であるため、治承4年(1180)に、この神社を鎌倉に遷祀したものが、現在の鶴岡下宮であると言い伝えられているが、確かではない。

治承5年(1181)5月13日の鶴岡造営のことは、東鑑(あずまかがみ)に書かれているが、この神社から勧請したという記述は見られない。また、源頼朝の誕生の地というのは、熱田の誓願寺境内という言い伝えもあり、どちらが正しいのかは不明である。」

尾張名所図絵前編巻五より 


 川替え〜井戸田の山車祭りの起こり

中世の頃の名古屋南部の地形は、熱田台地と八事台地の間に山崎川(と精進川)が、八事台地と鳴海台地の間に天白川が、鳴海台地のさらに南側に扇川が流れていました。

山崎川は・A松炬島(まつごしま)と呼ばれる笠寺台地の北側から、天白川はその南側から伊勢湾に注ぎ、多くの川の河口である笠寺台地周辺は、全体として年魚市潟(あゆちがた)という干潟・湿地帯を形成していました。

江戸時代になると、尾張藩は、財政を豊かにするために、この年魚市潟一体を埋め立てて、どんどん新田を開発してゆきました。ただ、天白川と扇川の合流するあたりは、特に低地だったため、しばしば洪水が起きていました。

尾張藩はその救済のため、享保13年(1727)に、図の点線部分のように、天白川を現在の平子橋付近から山崎川の落合橋付近に接続し、新田地域を洪水から救おうとしました。しかし、つないだ以後、今度は山崎川の方で14年間に17回の堤防決壊による洪水が起こり、山崎川沿いの井戸田村の人々は怒って、暴動にまで発展しました。そのため、尾張藩は元文6年(1741)に、再び天白川の流れを元の川筋に戻しました。

井戸田村の人々は、長年苦しんできた洪水の源が無くなったことを非常に喜び、安藤某という人が発起人となり山車を建立、津賀田神社例祭で、川替え心願成就の山車、または井戸田の安藤山車と名付けて曳くことになりました。そして、その後、例祭では豊年毎に曳くことになって行きました。

当時バイパス路として作られた水路の一部は、その後も悪水路(灌漑用水の排水路)としてずっと使われ、現在でも、ふたがしてあって上は歩道になっていますが、水路としては残っています。水路の跡は、ちょうど瑞穂区と南区の境界線となっており、地図で見ると経路は分かりやすいです。新瑞橋バスターミナルから落合橋の下を覗き込むと、上の川・中の川・下の川と呼ばれる3つの排水溝の端が見えていますが、このうち中の川と下の川が、この悪水路につながっており、井戸田の山車の始まりと関係のある水路かと思うと、感慨深いです。

また、天白川が山崎川に合流していた14年間、元の天白川原にできた新田を「天白古川新田」と言いました。現在、天白区野並にはその名残として「古川町」という地名が残っています。(野並交差点〜若宮商業高校のあたり)

このように、井戸田の山車祭りは、天白川と山崎川の川筋変更に関連して始まりました。山車祭りは日本中にたくさんありますが、山車祭りが始まった起源と理由がこれほどはっきりしていることは珍しいことではないかと思います。始まった年月に関しては、川替えの経緯から見て、元文6年(1741)直後と考えてよいでしょう。元文6年は2月27日までですので、おそらく寛保年間(1741〜1743)ぐらいかと推測されます。

この川替えのことは、以下の尾張徇行記に書かれていますが、尾張志にも、「享保の頃、・・・」という表現で書かれています。また、井戸田町内の言い伝えでは「正徳・享保年間の頃、・・・」となっており、年代には微妙な差が見られますが、大きな問題ではないでしょう。



尾張年中行事絵抄に描かれた井戸田大山車 

尾張徇行記(1822年成立)(私が適当に現代語訳)

「享保13年(1727)に、天白川を山崎川へ、いったん瀬違いを行ったが、14年間に天白川は17回決壊し、いたるところに砂が入ってしまう事態になったために、元文6年(1741)に、天白川の流れを元に戻した。そして、山崎川は現在の形になった」


 大山車の構造

山車祭りが始まった当初の山車の構造は、どのようだったかは全く不明ですが、最初は通常サイズぐらいのものだった可能性もあります。ただ、戦前まであった大山車は、由来記を書いた額が山車の正面に飾っており、そこには「寛政6年(1794)甲寅8月吉日造」と書かれていましたし、台車の木材にも同じ記載がありますので、おそらく、山車祭りが始まってからおよそ50年後の寛政6年に、戦前まで続いた大山車の形になったのではないかと思われます。

由来記自体は、大山車の写真の中で、津賀田神社と書かれた前幕の下にある、白くて横に細長いものです。由来記を書いた額には、「高さ三十尺有余、長さ十二尺、幅が八尺、四輪は楠で厚さが約1尺、差し口が三尺」と書かれていました。つまり、高さ9m、長さ3.6m、幅が2.4m、楠で出来た四輪は厚さ30cm直径90cmと、かなり大型の山車でした。

祭礼では、写真に見るように、その上にさらに4〜5mの松飾りを取り付けますから、トータルでは14mぐらいの高さがあったわけです。通常の山車は、5〜7mぐらいの高さが標準的なサイズですから、いかに背が高かったかがわかると思います。

この井戸田大山車は、名古屋城下で一般的な名古屋型と呼ばれる山車と形が異なり、熱田大山祭りに引き出される大山車(田中山と大瀬子山)の形態を受け継いでいます。

戦前の井戸田大山車の姿   
(郷土の山車写真集より)

現存する若宮八幡宮祭の福禄寿車は1676年、筒井町天王祭の湯取車は1658年の建造で、元禄年間(1688〜1703)頃には、すでに名古屋城下の山車祭りはかなり隆盛を極めていたはずですが、それを真似ずに熱田の山車を真似たのは、やはり距離的な近さが関係しているのかもしれません。

熱田大山祭りは、戦国時代初期に始まり、江戸時代初期にはすでに大山車でしたから、井戸田の人々も、きっとよく見に行っていたのでしょう。ただ、熱田の大山は高さ20m近くあり、名古屋型の山車よりは大きいとはいえ、井戸田の大山車は熱田の田中山などよりはやや小ぶりな大山車でした。いずれにしても、スマートで小回りが効いて動きの速い名古屋型の山車よりは、中世の雰囲気を残していることは確かです。

この井戸田大山車は、通常の山車と形が異なり、行燈のように見えたことから、戦前には「行燈山(あんどんやま)」とも呼ばれていました。ただ、これは安藤某が発起人だったため、安藤山と呼ばれていたという説もあるようです。

このほか、古橋正三さんの井戸田大山の模型によれば、台車には「寛政六年甲寅八月」(1794)、引幕には「弘化二乙巳年9月吉日」(1845)、車輪には「明治十丁丑八月」(1877)と書かれていたようです。白黒の写真ではわかりませんが、古橋正三さんの模型(下の写真)によれば、引幕の色は、上段が水色と白、中段が赤と紫と黒、下段が黄と緑と黒というように、とてもカラフルなものでした。遠くから見ると行燈のように見えたことから、戦前には「行燈山(あんどんやま)」とも呼ばれていました。

「尾張年中行事絵抄(1830年成立)」の絵は、戦前の大山車の写真とは引幕がかなり違って見えますが、年代から考えて、その絵は弘化2年(1845)に引幕を新調する以前の姿ではないかと思われます。

ただ、井戸田での言い伝えでは、引幕は「安政3年8月(1856)新調で、羅紗で織り生地が五色染め」となっています。年代に関しては、どちらが正しいのかははっきりしませんが、いずれにせよ11年の差しかありません。それに、弘化2年と書いてあるのは、模型写真の黄・緑・黒の引幕の方ですから、安政3年に赤・黒・青の引幕を、後から追加したという可能性もあります。
また、模型写真の一番上の段は水色と白の引幕は、尾張年中行事絵抄に見える大山の引幕と同じ色合いですから、ひょっとしたらそれを引き継いでいるのかもしれません。

山車には、恵比寿、大黒、唐子、采振り、おかめ、お湯取り、しちこ、唐獅子、蛇と、8種類の人形がありました。どのような人形であったのかははっきりしませんが、「恵比寿を踊らせる曲」、「おかめを踊らせる曲」があり、新車という曲も「唐子の踊りに合奏する曲」であることから考えると、多くはからくりを演じるための人形だったと思われます。

恵比寿を踊らせる曲は、「恵比寿が鯛を釣る場面があって、大太鼓が3回目のときが、鯛を釣る瞬間である。その後の太鼓ばかりのところは、釣った鯛を引きずりながら家へ帰るところで、途中、海の中から蛇が頭を出すのでそれを見て、またずっと御殿にお帰りになる。笛の音は、海ののどかなところを描写したものである。」と伝わっており、恵比寿と蛇の組み合わせで、からくりが演じられていたのでしょう。

新車という曲は、唐子を踊らせる曲であり、唐子は唐獅子との組み合わせで、からくりを演じたと伝わっています。唐獅子を操る人は、昔はのちぞうさ、明治期はじょうたろさ、大正昭和期は安藤弥右エ門が担当していました。また、おかめも踊らせる曲がある以上、からくり人形だったでしょうし、采振り人形も、一般的に考えて采は動いただろうと思われます。

古橋正三作 井戸田大山25分の1模型 


 江戸後期〜明治初期

1740年ちょっとに山車祭りが始まり、1794年に大山車の原型が出来上がり、1850年前後に引幕が新調され、井戸田大山車は着実に進化して行きました。

天保年間(1830〜1843)には、井戸田町内に福井松四郎という笛の名手が現れ、一時代を築きました。
大山車には八種類の人形がありましたが、そのうち唐子人形は弘化年間(1844〜1847)に新たに追加されたものでした。福井松四郎は、わかぎだゆうという名前の熱田神宮の禰宜さんとともに、矢車という曲をベースとして、「新車(しんぐるま)」という唐子人形の舞の曲を新たに作曲しました。
新車の音源はこちらにあります −> mp3音源

新車の太鼓伴奏の方は、当時の太鼓の名手であった近藤弥三郎(小太鼓)と渡邉新吉(大太鼓)が考案し・ワした。こうして、新車という曲は、井戸田を代表する有名な曲となって、現在まで伝わっています。

幕末〜明治初期には、福井松四郎とともに、立松柳蔵(傘屋のりゅうぞうさ)が笛吹きとして有名で、太鼓は、粕谷榮七、横井善左エ門、野村新三郎らが名手として知られていました。

津賀田神社にある石碑より 

江戸時代後期には、津賀田神社は若宮八幡と呼ばれていました。しかし、安政年間(1854〜1859)に、神社の祭神調査があったときに、若宮八幡、つまり仁徳天皇を祀っているという証拠がないとされ、尾張神名帳に載っている「津賀田天神」をもとに、津賀田神社という名前に変更となりました。この経緯は、このページの最初の方の尾張志の文献に書かれています。

井戸田大山車の前幕には、当時は「若宮八幡宮」という文字が書かれていましたが、神社の正式名称が変わっても、結局、大正時代までは書き直すことなく、「若宮八幡宮」のままの前幕を使っていました。


 明治中期〜大正期

福井松四郎や立松柳蔵などの笛吹きが、いつ頃まで生きていたのかははっきりしませんが、明治に入った頃から明治35年までは、井戸田には笛吹きがいなかったようです。そのため、福井松四郎の弟子を、他の村から呼び寄せて、井戸田大山の祭りを行っていました。

ただ、笛以外は井戸田町内のメンバーで、明治中期には近藤惣左エ門と加藤儀蔵が太鼓の名手として活躍していました。彼らは、明治28年の日清戦争全勝祝賀で大山車を出した頃が、最も油ののっていた時代でした。

いつまでも井戸田町内に笛吹きがいないのは問題だろうということになり、明治35年に浅井駒次郎の斡旋で、加藤定次郎と亀井鉄次郎の二人が・A山崎西町に住んでいた加藤源三郎に笛を習うことになりました。しかし、全くの初心者だったため、まず、浅井幸太郎に1年間手ほどきをしてもらい、その後、加藤源三郎のところに2年間、毎日のように通って笛を全曲覚えました。そうして、再び井戸田に笛吹きが登場したわけです。

加藤源三郎は、どこから笛を習ったのかは定かではありません。ただ、福井松四郎の弟子だったら、はっきりとそう伝わっているでしょうから、たぶんそうではないのでしょう。
津賀田神社にある大正14年建立の石碑には、近藤惣左衛門、加藤儀蔵、加藤源三郎の3人が表側に並んで書かれており、加藤源三郎だけ右肩に小さく山崎と書かれています。明治中期〜後期に活躍していた太鼓の2人と並んで書かれているわけで、加藤定次郎と亀井鉄次郎の腕がまだ十分でない明治後期〜大正期には、井戸田に吹きに来ていたのかもしれません。

太鼓の方は、亀井銀蔵と、加藤定次郎と同じ年の神谷源太郎が、やはり明治後期に近藤惣左衛門に習って、全曲を習得しました。その後、神谷助次郎や加藤泰蔵など、太鼓のメンバーは事欠かなかったようです。また、多額の寄進者であり、唐獅子の操り手でもあった安藤弥右エ門も、太鼓のメンバーに入っていました。
太鼓の方が習得が簡単ということもありますが、井戸田の熱田神楽は大瀬古流であり、太鼓は大太鼓と小太鼓の2人が必要なので、それで人数が多いということもあります。


津賀田神社の石碑表面 
(大正14年建立) 

津賀田神社の石碑裏面 
あと、井戸田には、神楽のメンバーに笛太鼓に合奏する手拍子つきという人がいました。どんな手拍子をやっていたのかは不明ですが、明治大正期には浅井きねはち、昭和に入ると、息子の浅井松次・Yが担当していたようです。昭和49年建立の石碑には、「囃子 浅井松次郎」という風に書かれています。


 昭和初期〜空襲で焼失

昭和3年の御大典(昭和天皇即位式)を祝った山車の曳き出しは大きなイベントだったようです。

安政年間に神社の名前が若宮八幡宮から津賀田神社に変わっても、ずっと大山車の前幕は「若宮八幡宮」のままでした。しかし、この御大典のときに、安藤弥右エ門の寄進で「津賀田神社」という金文字に付け替えました。
ただ、幕自体はそのままだったので、裏から見ると、うっすらと若宮八幡宮の文字が見えた状態だったそうです。

また、恵比寿と唐子の衣装も、この御大典のときに、安藤弥右エ門の寄進で新調しました。

南区役所前の井戸田大山(昭和10年、熱田神宮御遷座祭) 

次に、昭和10年の熱田神宮遷座祭も、大きなイベントでした。
右の写真は、井戸田大山を南区役所(現在の熱田区役所)の前まで曳いて行った時のものです。このときは、熱田の田中山なども南区役所前に参上したようで、盛大な祝賀祭が催されたようです。

昭和初期の笛のメンバーは、大正期とあまり変わりがありませんでしたが、太鼓の方は、新たに神谷助次郎、加藤泰蔵などのメンバーも活躍していたようです。

こうして、戦前までは、毎年大山車を繰り出す祭りが続けられていましたが、残念ながら、昭和20年5月(1945)、第2次世界大戦の時の空襲で焼失してしまいました。


 戦争直後の山車の復興

第二次世界大戦は昭和20年8月に終結しましたが、終戦後5年経った昭和25年(1950)頃から、山車の復活が始まりました。戦後の山車は、以前のような大山車ではありませんでしたが、全部で5輌作られ、北井戸田・本井戸田・河岸・堀田・穂波の5つの地区で、それぞれ別に管理されていました。

1.北井戸田
津賀田三町内(津賀田・松山・神前)の倉庫(天聖寺近くにあり)に保管されており、昭和30年代前半まで、山車は引き回されていたが、その後、廃車となった。
2.本井戸田
昭和25年に、当時の氏子総代の発案で製作され、井戸田五町内(西町・中町・東町1丁目・東町2丁目・惣作町)の山車庫(長福寺の向かい)に保管されていた。昭和38年までは毎年曳き出されたが、以後はたまに曳き出されるのみで、昭和48年の曳き出しをを最後に、以後は飾り付けのみとなった。平成2年からは行列そものが廃止となり、平成11年に解体処分された。

戦後復興直後の本井戸田山車の風景 (昭和25年9月) 
3.河岸
河岸の浅井金成宅に保管されていた。昭和24年10月に山車は製作され、一度は引き回されたが、その後は保管場所がないため、2〜3年で廃棄処分となった。
4.堀田
津賀田神社の社務所の地下に、解体された形で保管されていた。祭礼の時には、組み立てて飾り付けを行い、堀田街区(柳ヶ枝一丁目)まで曳いて行った。神楽囃子はテープレコーダーを流していた。いつ頃まで続いていたかは不明。
5.穂波
津賀田神社の社務所の地下に、解体された形で保管されていたらしい。詳細は不明。


 戦後の本井戸田山車とカラクリ人形

以上、5つの山車があったようですが、ここからは、比較的よく分かっている本井戸田の山車を中心に話を進めます。本井戸田の山車は、高さ3m、長さ3.5m、幅2mと、山車・ニしてはかなり小ぶりなものでしたが、祭りの日には、茶・黒・黄のカラフルな引幕と、たくさんの赤白提灯で飾られました。

第二次世界大戦の時の空襲で、津賀田神社は大部分燃えてしまいましたが、山車の材木は、その燃え残った境内のヒノキを使って作られたと伝えられています。ただ、どの程度使用したのかははっきりしません。

カラクリ人形は、戦後の山車が建造された翌年の、昭和26年に復活しました。神谷源太郎・浅井松次郎・加藤定次郎の3人が、徳島県板野郡大代(注:現在の鳴門市大津町大代)までわざわざ出向き、大江巳之助(おおえみのすけ)という人形師に、唐子人形の製作を依頼しました。また、人形の衣装は、安藤弥右エ門の孫の近藤新作が寄進しました。

四代目大江巳之助は、文楽座の座付きの人形細工師で、昭和20年に文楽座が空襲で焼け落ちた後、翌年から復興公演をするために、夜昼無く文楽人形の首を作り続け、数年間で約三百個を仕上げるという超人的な仕事ぶりを発揮した人です。もし、巳之助の奮闘がなかったら、文楽座の速やかな復興はなかっただろうと言われており、人形芝居の世界では、巳之助は人間国宝に匹敵する歴史的な役割を果たした方です。
そのような、当時では最も有名な人形師に、唐子人形の製作を依頼したのでした。

大江巳之助作の唐子人形 

この大江巳之助の作った唐子人形は、まだ山車庫に保管されているものの、あまり使われた形跡がありません。当時、かなりのお金を出して作ってもらったものの、からくりの出樋に載せるのには、台座も必要でしょうし、文楽人形では、ちょっと小ぶりだったのかもしれません。

結局、戦後の山車でメインに使われたからくり人形は、井戸田の人が作った人形でした。写真のように、唐子人形と恵比寿人形があり、出樋の駒に取り付ける支持棒が付いています。

人形の頭部は奥平一郎が作り、胴体や衣装部分は亀井金蔵の製作です。井戸田の大山車では、恵比寿人形と唐子人形が、カラクリ実演の中心的な存在でしたから、やはり、これは無くてはならないものだったのでしょう。山車には、向かって左に唐子人形、右に恵比寿人形が飾られていました。

その他の人形については、はっきりしませんが、山車庫には、唐獅子とオカメのお面しか残されていません。

戦争直後の写真では、采振り人形が写っていますが、これは現存していないようです。蛇も見当たりませんでした。

戦後の山車のカラクリ人形 (左が唐子、右が恵比寿) 

このように、昭和30年代初めまでは、戦前の井戸田大山車を良く知っていた人々を中心にして復興が進み、再び祭りの活気を取り戻しつつありました。


 高度成長期の井戸田山車祭り

昭和30年(1955)の経済白書には、「もはや戦後ではない」という言葉が書かれ、その頃から、日本は高度経済成長期(1955〜73)に突入して行きました。井戸田は、名古屋の中心部からそれほど遠くない瑞穂区の一角であり、やはり急速に都市化が進んで行きました。マンションが増え、核家族化が進んで、だんだん地域とのつながりも希薄となって行きました。また、子供たちも受験勉強で忙しくなり、町内で笛や太鼓の練習するという雰囲気が、だんだん無くなって行きました。

昭和30年代頃には、まだ盛大な祭りが行われていましたが、井戸田で笛を指導できるような人は、加藤定次郎ひとりになってしまいました。祭りになると、友人である昭和区天白町八事の浅井忠良・近藤仁三郎や同町池場の近藤敏雄などが手伝いに来ていましたし、地元には若手の笛吹きも何人かはいました。ただ、じり貧であることは否めず、神楽連の行く末を案じた加藤定次郎は、昭和33年に、公開録音会を開催し、井戸田で演奏されてきたすべての神楽やお囃子を、テープに録音して後世に残しておくことを考えました。このテープは長らく行方不明でしたが、名古屋市が募集した地域探検隊の調査(平成22年)の際に、井戸田の山車庫の中で見つかり、井戸田大山車研究の貴重な資料となっています。


戦後の山車 (本井戸田) 
昭和40年代になっても、まだ賑やかな山車祭りが行われており、町内会も祭りに対する理解がありました。ただ、加藤定次郎も寄る年波には勝てず、昭和40年代には、神楽の演奏は熱田神楽笠寺保存会に頼むようになって行きました。笠寺保存会は、熱田神楽の正統を受け継いだ保存会で、笛太鼓が上手なメンバーをたくさん抱えていました。ただ、彼らは強力な助っ人ではありましたが、ある意味では上手すぎて、逆に地元の神楽連のメンバーが笛太鼓の演奏から離れてゆく結果となってしまいました。

ただ、この頃は名古屋南部地域の他の神楽連と互いに協力し合っていたようで、持ち回りの神楽大会というものが時々催されていたようです。昭和42年は井戸田神楽連の順番で、津賀田会館というところで、神楽大会が開催されています。

出場者は、加藤鉦治郎(熱田区市場町)、村上源吉(昭和区天白町八事)、近藤敏雄(昭和区島田池場)他2名、荒川関三郎(南区笠寺)他11名、山田秋義(瑞穂区松栄町)他1名、西川新次郎(中川区下の一色町)他4名、野村銀松(瑞穂区北井戸田)他1名、大矢栄松(熱田区千代田町)他1名、加藤定次郎・加藤金一(井戸田)の計30名でした。

加藤鉦治郎は加藤鎌吉の息子、村上源吉はおそらく昭和33年の公開録音会を手伝った浅井忠良の関連の人、近藤敏雄は公開録音会を手伝った島田神社で笛を吹いていた人、荒川関三郎は笠寺保存会の会長、山田秋義は昭和区上山で神楽をやっていた人、西川新次・Yは新次郎太鼓(尾張太鼓の一派)を始めた人、野村銀松はよく分かりませんが北井戸田にも山車があったのだから笛吹きも居たでしょうし、大矢栄松は熱田で太鼓をやっていた人です。

現在は衰退してしまった地域の人たちも、当時は元気だったようですし、また、尾張太鼓の西川新次郎がこういう席に参加していたとは驚きです。(尾張太鼓のグループも、熱田神楽のレパートリーが2〜3曲あるようです)


 昭和の終わり〜平成の井戸田山車祭り

戦後に作られた北井戸田・本井戸田・河岸の3輌の山車(さらに堀田と穂波にもあって計5輌あったという話もあるが未確認)は、河岸は数年で使われなくなり、北井戸田もほどなく廃車となり、昭和50年代頃には、本井戸田の山車が1輌残っているだけになってしまいました。その最後の本井戸田の山車も、昭和40年以後は、飾り付けをするだけで曳き回しを行わない年も多くなり、神楽の演奏もテープレコーダーの再生で済ませるようになって行きました。実際の山車の曳き回しは、昭和48年、加藤定次郎の何かのお祝い(米寿?傘寿?)で行われたのが最後でした。

昭和58〜59年には、井戸田小学校の山下敏之校長(当時)が小学生約20〜30名に笛を教え、津賀田神社の祭礼で神楽を奉納しました。山下先生は、若い頃に中川区の戸田祭りで笛を吹いていた方で、情操教育の一環として子供たちに笛を教えられたようです。祭り関係者は大変感激しましたが、残念ながら、山下先生が転任すると、後は続きませんでした。

そして、とうとう平成元年が最後となり、以後は行列そのものが行われなくなりました。地域の人々も山車祭りに熱中するだけの時間的余裕が無くなり、町内会も重荷と感じるようになってしまった以上、仕方が無かったのでしょう。ただ、山車の曳き回しや行列は無くなっても、山車庫の前で飾りつけだけは行われていましたし、子供みこしや翌日の提灯行列などは、まだしばらく続けられていました。

山車の行く末に危機感を持った人々は、平成5年に山車保存会を結成し、山車の保存を呼びかけました。しかし、町内会の反応は鈍く、平成6年に行った住民アンケート調査の結果から、ついに山車は廃棄処分されることに決まりました。

小学生の神楽奉納 (昭和58年) 

他の地域や博物館などにも声をかけましたが引き取り手はなく、平成11年(1999)、山車は21世紀の世の中を見ることなく解体処分されました。



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