トップページへ
大瀬子流と田中流の太鼓 (笠寺系熱田神楽)


 大瀬子流と田中流の太鼓の歴史

笠寺系熱田神楽(宮流神楽)には、古来、大瀬子流と田中流という2つの太鼓の打ち方があります。
熱田・笠寺の歴史のページに書いたように、熱田の大山祭りには、大瀬子町と田中町の町内に、それぞれ大瀬子山と田中山という2つの大山(巨大な山車)があり、その大山に関連する神楽師の太鼓の打ち方と関係があります。笛の方は、太鼓がどちらの流派でも、止メの部分が微妙には違いますが、基本的に同じです。

熱田大山祭り自体は明治後期に衰退してしまいましたが、残っていた神楽師たちは、まだ昭和初期までは熱田周辺の神社の祭礼で、大瀬子流の人も田中流の人も活躍していました。しかし、熱田神楽の中心が熱田から笠寺に移るにつれて、熱田町内の神楽師は後継者もなく減少して行き、昭和30〜40年代には笠寺に関連した神楽師が熱田の方に派遣される形になってゆきました。

熱田神楽笠寺保存会の人たちは、基本的に田中流の太鼓を継承し演奏していますので、最近の若い人たちは田中流の打ち方しか知らないようですが、古いメンバーは大瀬子流の太鼓も派遣先で習得していて、打つことはできるようです。しかし、古いメンバーも普段は田中流の打ち方しかしませんので、大瀬子流は衰退の一途をたどり、最近では大瀬子流の太鼓を聞くことは全く無くなってしまいました。
また、田中流は一人で太鼓を打つのに対し大瀬子流は二人打ちのため、大瀬子流の太鼓を知っている人が2人必要という問題も関係しているのかもしれません。

熱田の大瀬子町以外に、大瀬子流の太鼓のもうひとつの中心地は井戸田神楽連(津賀田神社)・ナ、戦前までは大きな山車を繰り出して祭りを行っていました。詳細は、津賀田資料のページを見てください。ただ、津賀田神社の祭りも、戦争で山車が燃えてしまい、小さな山車で再興はしましたが神楽の後継者が育たず、衰退の流れを止めることはできませんでした。昭和40年代には、神楽はほとんど笠寺保存会からの派遣でまかなっていたようです。

このように、現在は大瀬子流の太鼓は演奏されることがほとんど無くなってしまい、田中流ばかりになってしまいましたが、笠寺保存会の古いメンバーの方たちがご健在のうちに、大瀬子流の太鼓の打ち方を保存しておきたいと思い、いろいろな方にお話を聞いて、このページを作りました。


 大瀬子流と田中流の太鼓の打ち方

最近では、笠寺系のかなりの地域で、太鼓は大太鼓と締太鼓の組み合わせが増えてきましたが、30〜40年ぐらい前までは、大太鼓と小さな宮太鼓を組み合わせて横に並べて打つ打ち方の方が普通でした。締太鼓は、田中流では使うこともたまにありましたが、大瀬子流では締太鼓は全く使うことはなかったそうです。

田中流(現在の一般的な打ち方)は一人で2つの太鼓を打ちますが、大瀬子流は、大太鼓と小さな宮太鼓を2人でそれぞれ打つのが基本です。 笛を吹く方の立場としては、どちらの流派でも、また太鼓がどの組み合わせでも、あまり違和感がありません。

下の図の太鼓譜を見てください。
見方は、◎が大太鼓強打、○が大太鼓弱打、Xが小太鼓強打、vが小太鼓弱打、・が休符です。下線部は8分音符で、他は4分音符、4拍子の4小節で記譜してあります。テンポは、通常120〜140ぐらいです。



六つ打ちの場合、大太鼓の打つ位置は田中流も大瀬子流もまったく同じ場所です。小さい太鼓の方は、大瀬子流ではすかし(リズムを取るために弱く打つこと)を基本的にやらないので田中流とは多少違いますが、アクセント部分はだいたい同じです。ただ、大瀬子流では、小太鼓の1小節目の3拍目を、すかしではなくしっかりと打つのが特徴です。

半間の場合、大太鼓に関しては、大瀬子流では2小節目の4拍目は大太鼓がありませんが、田中流でもここを小さい太鼓(または締太鼓)で済ます人もいます。小さい太鼓の方は、大瀬子流では六つ打ちと同じくすかしはありません。まだ調査不足ですが、大瀬子流の小太鼓は半間の3小節目1拍目も打っている可能性があり、そうだとすれば、大瀬子流では、小太鼓は六つ打ちと半間の違いが無く、ずっと同じように打っているということになります。

半間を入れる位置に関しては、田中流も大瀬子流も同じという話なのですが、津賀田資料のページの音源(大瀬子流)を聞くと、現在と半間の位置が違う(というか半間が少ない)ので、もう少し調査が必要なようです。大瀬子流は、すかしが無いので全体として非常にシンプルな太鼓ですが、その分、力強さが感じられます。

また、大瀬子流の半間ですが、津賀田資料の佐京神楽(三みつ下がり)の最後の行(半間)は、神明神楽の2行目のように、大太鼓を連打しています。他の津賀田資料の神楽には、この打ち方は見当たりませんが、大瀬子流では他の曲でもこのパターンが半間として使われることがあるという話もあり、もう少し調査が必要なようです。

次は、止メの部分を見てみましょう。
止メの前半は規則的なリズムですが、後半は規則的なリズムの観念がなく自由な感じで打ちます。



この譜面は一般的と思われるもので書きましたが、人によって多少違うようです。
まず、田中流と大瀬子流の最初の違いは、止メの前半が終わったところで、田中流では小太鼓(締太鼓)を2つ連続で打ってから笛がオヒーに入りますが、大瀬子流では大太鼓ひとつ(長さは2拍分)だけでオヒーに入ります。つまり、大瀬子流では、止メの前半は普通に六つ打ちというわけです。

大瀬子流の止メの後半は、津賀田資料の音源から拾ったものですが、曲によって(多分、人によって)打ち方が微妙に違うので、この譜面が普通の打ち方かどうかはわかりません。ただ、最初のオヒーのところは大太鼓は連打せずにひとつで、そのあとは小太鼓をいくつか打って、最後のオヒーに・ネるようです。

お囃子の方はまだ調査不足ですが、「祇園囃子(まきわら)の最後のところは少し違っていて、田中流は大太鼓と小太鼓が3つずつだが、大瀬子流は2つずつだ」という古老の話を聞きました。津賀田資料の音源を聞くと、やはりそうなっています。田中流の祇園囃子の太鼓を知らないとわからない話でしょうから、そのうちに楽譜もアップする予定です。

昔の巻藁(まきわら)船は大瀬子流の太鼓が基本だったようで、船の定員は5名で、3人が笛で2人が太鼓だったそうです。巻藁船が出航すると、最初に一社を演奏し、次に神明神楽、その次に神楽をひとつ(月矢車・おかめ・三みつ下がりのあたりのことが多かった)演奏し、その後は、延々と祇園囃子(巻藁)を演奏していたそうです。飽きてくると少し大山(道行)を演奏し、また再び祇園囃子を続けたそうです。

祇園囃子(まきわら)以外のお囃子では、津島下がり、早道、新車(津賀田神社のみ)など、大瀬子流では比較的ゆっくりしたものが多く、植田囃子や庄中囃子などは無かったという話です。

植田囃子は、2人打ちの打ち方も笠寺関連の地域で行われていたらしく、大太鼓の打つ位置は現在とほぼ同じで、小さい太鼓は現在の締太鼓の打ち方よりもずっと細かく打っていたという話です。ただ、植田囃子や庄中囃子は瀬戸・日進付近から伝わってきた可能性が強く、多分、そちらでのもともとの打ち方が2人打ちだっただけで、大瀬子流とは関係ないように思われます。


 トップページに戻る  メールを送る