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熱田神楽・宮流神楽の歴史 (熱田 ・ 笠寺系)


 巫女神楽の歴史

古事記・日本書紀には、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋に篭ってしまった時、天細女命(あめのうずめのみこと)が天の岩屋戸の前で神がかりして舞ったという神話があり、それが巫女神楽の起源と言われています。これが史実かどうかは別として、古代においては巫女は呪術師(シャーマン)であり、巫女の舞は神がかり的な、つまり呪術的な要素がかなりの部分を占めていました。しかし、平安時代中期以降になると、巫女舞はいろいろな神事・儀式に取り入れられてその一構成要素となることも多くなり、次第に洗練されたものになって行きます。

奈良時代には、大陸から雅楽(唐楽、高麗楽)や散楽などの外来音楽が伝わり、日本の儀式音楽に大きな影響を与えました。平安前期には、傑出した演奏家の尾張浜主(おわりのはまぬし)が現れ、雅楽(舞楽・管弦)を集大成し、日本古来の神楽を含めて体系化しました。この尾張浜主は熱田神宮の神楽座の楽人だったと言われており、熱田神宮にも古くから楽人組織があったことは確かなようです。もしかすると、尾張浜主も、地元では巫女神楽も演奏していたのかもしれません。

平安時代後期以後は、有力な神社ではどこでも巫女舞が行われるようなり、呪術的な目的というよりもむしろ、無病・平安・豊作などの現世的利益を祈願する儀式の一部として行われていました。式内社(平安中期の延喜式神名帳に載っている神社)は、愛知県内にも数多くあり、この地域でも、その当時から巫女舞が行われていたことは間違いないでしょう。

以後、鎌倉・室町・戦国・江戸と時代移り変わっても、無病・平安・豊作などを祈るときに巫女が舞い、その後ろで音楽が奏でられるということ自体は、ずっと変わりがありませんでした。ただ、巫女舞の振り付けや音楽の種類は、時代によってかなりの変遷があったことは確かです。振り付けも曲も残っていないのでわかりませんが、いわゆる雅楽以外に、猿楽・田楽などの系統や、能や狂言、そして文楽・浄瑠璃・歌舞伎など、時代によっていろいろな影響を受けたと考えられています。


 宮流神楽の始まり

現在の宮流神楽の起源は,はっきりとはわかっていません。三河・知多地域では、宮流神楽に対して伏見屋流・大和流・旭流などの神楽があり、しかも、その分布の境界線がかなりはっきりしていますので、おそらく、一般民衆に広がっって行ったのはそれほど古いことではなく、江戸後期〜幕末ぐらいだったのではないかと言われています。ただ、「宮流」という言葉にあるように、宮流神楽は熱田神宮でずっと伝えられてきた巫女神楽が一般民衆に広まったわけで、「宮流神楽の元となった神楽が、何時頃から熱田神宮で演奏されるようになり、伝承されるようになったのか」については、かなり古いことは確かでしょうが、全くわかっていません。

江戸時代後期にはすでに、熱田神宮では宮神楽(雅楽)と里神楽(太鼓と篠笛)の両方があり、神楽などの音楽を担当する神楽座が、共に伝承を行っていました。どのような使い分けをしていたのかは不明ですが、その2つが並列して存在していたことは確かなようです。江戸末期には、熱田神宮に菊田家、鏡味家、若山家の3つの神楽を担当する社家が存在しており、神宮での儀式に奉仕していたほか、市中の神社にも頻繁に演奏に出かけていました。そして、その地域の人々に、笛や太鼓を教えたりもしていました。この出張演奏や出張指導により、宮流神楽が尾張・三河西部の広い地域で少しずつ行われ始めていたことは確かで、それが、明治以降に急速に広まる下地となったと思われます。

明治維新後、新政府は神道国教・祭政一致の政策をとり、明治元年に神仏分離令を発布しました。そこから廃仏毀釈運動が始まり、神社からの仏教的要素の払拭が行われ、各地で大混乱が起きました。この動きに関連して、熱田神宮内部でも御神楽(宮中の儀式に近いもので主に雅楽)だけを正統なものとする考えが起こり、里神楽は排斥される方向になってしまいました。明治八年には、熱田神宮の楽人機構が変更となり、里神楽を担当していた楽人たちは皆失職し、生活の糧を求めて尾張・三河東部にちらばり、各地で職業として神楽を演奏したり教えたりするようになって行きました。これにより、熱田神宮の中でずっと行われていた里神楽が、爆発的にこの地域全体に広がって行ったわけです。そして残念なことに、明治以後現在に至るまで、熱田神宮の公式行事では一切里神楽は演奏されなくなりました。

明治に入ると、熱田神宮社家であった二代目菊田斎女(きくたさいめ)が家元となって、熱田神楽宗家を興したと言われています。それ以後は、かっての同僚や弟子達が各地で演奏したり指導したりした結果、熱田・笠寺を中心に名古屋市のほぼ全域、清洲、知立、刈谷、安城、三好、大府、横須賀、大野、亀崎、岐阜県では中津川・付知、三重県では多度など、尾張・三河南部を中心に広く分布するようになりました。斎女死後は、よくわかっていない2代目の宗家を経て、一緒に出張演奏・指導に行っていた同好の鏡味鉦之助(かがみしょうのすけ)が、3代目熱田神楽宗家を受け継ぎました。


 熱田大山祭りの盛衰

熱田大山祭り(熱田天王祭り)は、宮流神楽と直接関係はありませんが、宮流神楽を演奏していた江戸〜明治時代の神楽師の動向や、後を引き継いだ笠寺保存会が伝承している宮流神楽以外の曲目と深くかかわっているので、項を設けることにします。

一条天皇の時代(986〜1011)に全国的に疫病が流行し、熱田の里でも死者が多数出たので、人々は疫神(牛頭天王=素盞嗚尊(スサヲノミコト))を祀ってお祈りしました。すると疫病が鎮まっていったで、その翌年から毎年六月五日(現在でもその日に熱田神宮で尚武祭が行われます)に種々の練物を奉祀して祭典を行ったのが、熱田大山祭りの始まりと言われています。このお祭りは熱田神宮の摂社である南新宮社で行われ、大山祭りは南新宮祭りとも呼ばれていました。

しばらくは、祭りは旗鉾で行われていましたが、後土御門天皇の文明年間(1469〜1486)に、熱田の里正の佐橋兵部という人が里人と相談し、旗鉾を潤色して山車を飾り、大山車と車楽を作ったのが始まりと言われています。高さ20mを超える巨大な大山が3輌と普通の車楽が6輌あり、盛大な祭りが江戸時代を通じて行われてきました。

大山祭りが終わった翌日の六月六日から八月二十一日までは、村人たちは交代で、笛・太鼓の打ち囃子を演奏しながら、笹提灯を南新宮社に献じ、篝火(かがりび)を焚いてお祭りを行いました。この祭りは祇園祭り(または提灯祭り)と呼ばれましたが、「祇園」という言葉は、祀られている神(素盞嗚尊)が祇園神とも呼ばれているためです。京都の祇園祭りも津島天王祭りも、同じように祇園神(疫病神)を祀っています。

熱田には師人(もろと)衆と呼ばれる旧家・門閥の家柄の人々がいて、祭りや山車に多額の寄付をしていました。山車が師人衆の家の前にさしかかると、「その人の名前+囃子」と書いた木札を掲げ、特別に人形囃子を演奏しました。全部で66人いたようです。

この熱田の名物とされた壮大な大山祭りも、明治時代の中頃になると、市内に縦横に架かる電線が障害となって、山車は進退の自由が利かなくなりました。そのため、山車はしだいに全部を引き出さなくなり、特別な式典の年に飾り付けるだけになって行きました。明治よりも後では、熱田神宮千八百年祭(大正二年)と熱田神宮遷座祭(昭和十年)に飾り付けられただけで、以後は蔵から出されることも無く、そのほとんどは戦時中に空襲で燃えてしまいました。ただ、中瀬町の車楽だけは残っていて、世界デザイン博(1989)の時に飾られました。

ただ、衰退した原因に関しては、電線よりも社会的・経済的変化の方が大きかったのかもしれません。明治中期には物流システムが大きく変化し、それまでの問屋制家内工業が工場制大工業に変わって行き、祭りに多額の寄付をしていた商人たちは経営が苦しくなり、親方・使用人の関係だった人々は工場労働者になって自由には休めなくなりました。富国強兵・西欧化へと人々の考え方も変化し、意欲とパトロンと参加者を失った祭りは、規模が大きかったことがあだとなり、衰退せざるをえなかったのでしょう。

山車が中止となった後、山車の代わりとして新しく「巻藁(まきわら)船」が始まりました。祭りの出し物として本格的になったのが明治四十三年で、以後しばらく続いていたのですが、これも昭和四十八年を最後に中止となってしまいました。


 熱田神楽宗家の歴史

熱田神宮の職制が変更になり、明治8年に神楽座が解散した後も、明治期を通じて、菊田斎女が熱田神楽宗家として、それまでと同じように各地へ出張演奏や出張指導を続けていました。職を失った旧社家の人々も、もともと神主であったことを生かして職を探したでしょうから、落ち着いた後しばらくの間は、宗家と何らかの結びつきがあったのかもしれません。
熱田神楽宗家とどのような関係であったかは不明ですが、安政5年(1858)から明治27年(1894)までの長期間、半田亀崎の神楽を指導していた旧社家の鏡味右内も、おそらく菊田斎女と同世代だったと思われます。

一方、熱田には大山祭りを指導していた鬼頭惣助、呼続には稲熊金蔵(おそらく富部神社例大祭を指導)など、民間には山車囃子などの神楽を指導していたそれほど年令の違わない人材もいました。津賀田神社大山祭り(瑞穂区)や牛立天王祭り(中川区)も同じく宮流系ですので、文献にはありませんが、関係した神楽師が複数いたと思われます。

主要な人物の、明治八年(1875)時点での年令を・ゥてみましょう。
宗家 菊田斎女 40歳台後半 (明治42年死去、息子の隼之助が昭和4年に78歳で死去から推定)
宗家 鏡味鉦之助 生まれた頃? (大正初期に宗家を継ぎ、昭和30年頃にまだ生きていたことから推定)
熱田 鬼頭惣助 40歳前後 (天保(1830〜1843)生まれ)
熱田 加藤鎌吉 14歳 (文久元年(1861)生まれ)
呼続 稲熊金蔵 40歳前後 (天保(1830〜1843)生まれ)
桜  近藤幸七 31歳 (弘化元年(1844)生まれ)
笠寺 荒川清吉 4歳 (昭和31年に85歳)

熱田神楽宗家といっても、菊田斎女一人で神社からの出張要請を全部こなせるはずもなく、民間の神楽師、特に熱田町内の神楽師の協力を得ながら、活動を行っていました。宮流神楽にも、熱田大山祭りに大山車を出していた田中町と大瀬子町にちなんだ名前の、田中流と大瀬子流という2つの太鼓の流派があったようで、このことからも宮流神楽と熱田大山祭りの密接な関係がわかります。
しかし、明治中期以降、熱田大山祭りが衰退してくるにつれ、熱田の神楽師も人材不足になってきました。大山を出した大瀬子町でさえ、明治30年代の「金銭出納帳」によれば、この時すでに神楽の笛吹きを他から頼んでいます。

明治43年に菊田斎女が死去し、大正初期に鏡味鉦之助が熱田神楽宗家を引き継ぎました。鏡味鉦之助が三代目熱田神楽宗家と自称している資料があるので、その間に二代目の宗家がいたと思われるのですが、誰なのかははっきりしません。この頃には、熱田大山祭りも巻藁船が出るだけで、山車は蔵に入ったままで出されることもなく、さびしい状態になっていました。しかし、熱田神楽宗家が精力的に出張演奏・出張指導を続けてきた成果が出てきて、民間では広い範囲の地域に宮流神楽がどんどん普及し、その地域で独自に伝承・後進の指導ができるまでに発展していました。

鏡味鉦之助自身は、宗家を引き継いだといっても笛も太鼓もやらず、ひたすら世話役に徹して、実際に各地で出張演奏・出張指導をしていたのは、加藤鎌吉及びその弟子たちだったとのことです。

熱田神宮千八百年祭(大正2年、1913)には、久しぶりに山車が出されて一斉に飾り付けられて賑わいました。この時、熱田町内の神楽は加藤鎌吉(当時52歳)が指導しており、人数が減っていたとはいえ、熱田神楽宗家と熱田町内の神楽師を中心として、神楽囃子やお囃子の演奏は行うことができたようです。
一方、大正2年には笠寺の荒川清吉は当時42歳で、おそらく笠寺町内のお囃子や神楽の指導をしていたのでしょうが、笠寺資料の取り扱いから見て、特に傑出した演奏家だったわけではなかったようです。ただ、その下に、若き日の荒川関三郎(当時17歳)がいました。

右の写真は、加藤鎌吉の写真です。(昭和10年10月26日の名古屋新聞より)
加藤鎌吉の職業は、魚屋だったとのことです。


 笠寺保存会の歴史

まず、笠寺保存会が活動の拠点としている七所神社の由緒を見てみましょう。
平将門の乱(935〜940)が起こった時、朝廷は全国の神社に征伐を祈願するように布令を出しました。それを受け、尾張国あゆちの人々は、熱田大宮、高蔵宮、八劔宮、大福田宮、日割宮、氷上宮、源太夫宮の七所の霊を受けて西南にある小高い山に祠を建て、神楽を奏して将門の調伏を祈願しました。将門の征伐が終わった後も、祈願した祠はそのままにして氏神としてお祀りし、その約100年後に現在のところに移転しました。これが、笠寺にある七所神社の始まりと伝わっています。秋季例祭には傘鉾と神輿の行事(神輿渡御神事)が行われますが、これは江戸時代から続いているそうです。

傘鉾と神輿のお祭りが江戸時代からあったわけですから、七所神社周辺の町内には、神楽・お囃子を演奏する笛や太鼓のメンバーはある程度居たでしょう。そして、熱田神楽宗家が笠寺にも出張演奏・出張指導するにつれて、宮流神楽系の神楽師が育ち、明治の末から大正時代になるにしたがって、徐々にある程度の勢力を持つようになってきました。

ただ、明治中頃には、まだ笠寺はそれほど神楽が盛んではなく、現在の名古屋市南区あたりでは、近藤幸七のいた桜、源十のいた桜新田、稲熊金蔵のいた呼続の方が大きな勢力を持っていました。中でも特に桜が盛んで、近藤幸七の他に太鼓の名人・h秀さ”や笛の名人”清さ”などがおり、他の地域を抜きん出ていたようです。

荒川関三郎は、25歳年長の荒川清吉のもとで宮流神楽や周辺地域のお囃子を習い、皆伝門下生として活躍し、次第に頭角をあらわしていました。そして、彼はそれに飽き足らず、桜の近藤幸七や熱田の加藤鎌吉など近隣の笛の名手に教えを請い、笛の技術を高め、レパートリーを増やしていました。

昭和10年(1935)に熱田神宮遷座祭が行われ、数十年ぶりに熱田大山祭りで使われた大山車・車楽が蔵から出され、飾り付けられて盛大なお祭りが行われました。しかし、熱田神楽宗家や熱田町内の神楽師だけでは、もはや神楽・お囃子を演奏する人材を賄うことはできず、笠寺の荒川関三郎(当時39歳)を中心とした近在の神楽師の協力を仰がざるをえませんでした。

結局、昭和10年の熱田神宮遷座祭を機会に、熱田町内の加藤鎌吉(当時73歳)と熱田神楽宗家の鏡味鉦之助から笠寺の荒川関三郎に、宮流神楽の正統を委譲されました。荒川関三郎は神主ではありませんでしたが、その力量を見込まれたということでしょう。以後,熱田神楽宗家(第四代)を引き継ぎ、宗家を名乗るときは荒川関高という号を使用して活動を続けました。

ただ、近隣100ヶ所以上の神社からの出張演奏依頼を全部こなすことは、すでにそのかなり以前から、熱田町内の神楽師や熱田神楽宗家だけでは困難だったと思われ、出張演奏のかなりの部分を、荒川関三郎の率いる笠寺の神楽師たちが、すでに請け負っていた可能性が高いと思われます。つまり、実質的な出張演奏の権限はその前から徐々に移行しており、昭和10年に権威を含めてすべてが委譲されたと考えるべきでしょう。

笠寺資料には、「熱田市場町の加藤鎌吉(文久元年生)は鬼頭惣助から神功皇后空針の秘曲を始め数々の秘曲を受継ぎ、本会正副会長、荒川関三郎・稲熊代三郎に皆伝した。」とあります。神功皇后空針の秘曲は熱田大山祭りの大山の人形囃子の中で最も重要なものであり、熱田の神楽師の中で最も熟練した者だけが吹くことを許された曲で、簡単に人に教えたりしないものでした。加藤鎌吉がそれを荒川関三郎に教えたということは、途絶えてしまった祭り囃子を何とか後世に残したいという気持ちが込められていたでしょうし、また、それは権威が委譲されたことを示す象・・でもあったのでした。
秘曲の伝承は、熱田伝馬町にある正覚寺の稲荷神楽殿にて行われ、南区笠寺町の荒川関三郎と大江町繰出の蟹江鎌三に伝授されました。この秘曲伝授の逸話は、昭和10年10月26日名古屋新聞の記事にもなっています。

もちろん、加藤鎌吉を始めとする熱田の神楽師は笛を吹くのを止めてしまったのではなく、出張演奏から開放されたというだけのことでしょう。加藤鎌吉の息子の加藤鉦治郎もまた、笛・太鼓の名手として巻藁船でずっと活躍していました。また、昭和30年代ぐらいまでは、菊田勘太郎(通称:かんさ、大瀬子町)や加藤(通称:じんさ)など、熱田の神楽師も笠寺に出入りしていたという話です。

荒川関三郎は、笛太鼓の演奏以外に、猩猩(名古屋南部でお祭りに出てくる大きな人形の張子)を作る名人でもあったようで、猩猩作りとセットで宮流神楽を広めていったようです。荒川関三郎の作った猩々の写真は、笠寺猩々保存会のページに載っています。

昭和31年(1956)に、荒川関三郎を会長として熱田神楽笠寺保存会が正式に発足しました。ただ、これは愛知県に無形文化財の申請をするために形式を整えただけのことで、何か新しいことがあったわけではなさそうです。

昭和46年(1971)1月に荒川関三郎が亡くなった後は、門下代表であった荒川鋭雄が後を引き継ぎましたが、2年ぐらいで体調を崩されてしまい、結局、昭和31年熱田神楽笠寺保存会が発足した当初からのメンバーである浜野司氏が、熱田神楽笠寺保存会会長および熱田神楽宗家(第五代)を引き継ぎ、現在にいたっています。多くのメンバーが所属しており、年間数十ヶ所の出張演奏を今でも続けています。

昭和31年10月 本地祭り
笛:荒川関三郎、太鼓:浅井忠良

話は少し戻りますが、昭和初期の当時には、熱田神楽宗家や熱田町神楽師の影響を受けた町内(神楽連)は、名古屋市の南部〜東部にかけて多数存在しており、それぞれ独自の伝承を行っていました。笠寺町内は、熱田町・熱田神宮に比較的近い場所にあり、多くの神楽師をかかえる大勢力だったのですから、宗家を委譲され、熱田神楽の中心が熱田町から笠寺町に移っていったのも、自然な成り行きだったのかもしれません。しかし、他地域の町内(神楽連)も、当時はそれなりの数の神楽師がいたわけで、笠寺が宗家を名乗っても、必ずしもその傘下に入っていたわけではありませんでした。宗家の委譲も、加藤鎌吉と荒川関三郎の個人的な人間関係が関係していたのかもしれません。また、荒川関三郎がしきりに「宗家」という言葉にこだわったのも、それがないと他の町内神楽連からの優位性を示せないという程度の状況だったということなのでしょう。
「神功皇后空針の秘曲」にしても、当時、牛立(名古屋市中川区)の牛頭天王車や、津賀田(名古屋市瑞穂区)の大山車でも演奏されていました。熱田町の田中山のカラクリの曲として、この曲が伝授されたということは、象徴的な意味合いがあったのですが、曲自体は他地域でも吹かれていたわけです。

ただ、第二次世界大戦後は、津賀田神社の大山車や星崎(名古屋市南区)の山車など、熱田神楽と関連が深かった山車の多くが燃えてしまいましたし、戦後の動乱で祭りどころではありませんでした。伊勢湾台風の被害も相まって、各地の神楽は衰退の一途をたどりましたが、笠寺町は比較的勢力を保ったままで、結果的に、本当の意味で宗家の役割を果たすようになって行きました。これは、荒川関三郎というカリスマ性の高い人物がいたし、多数の出張演奏先を持っていたということもあると思いますが、もともと笠寺の祭りは傘鉾が主体で、山車などのお金がかかる大掛かりなものはなく、フットワークが軽かったことが幸いしたのかもしれません。昭和40年代の笠寺保存会の名簿を見ると、津賀田神社、島田神社、八事方面の神社などのメンバーも名を連ねるようになり、笠寺保存会の傘下に入って助っ人を派遣してもらっていました。牛立(名古屋市中川区)の牛頭天王車も、一時、笠寺保存会から神楽師に来てもらっていたという記録もあります。


 もうひとつの宮流神楽

ここまで、宮流神楽の本流、つまり熱田と笠寺の歴史を振り返ってみました。しかし、音楽的な観点で見ると、熱田笠寺系列とは少し違ったもうひとつの宮流神楽が存在しています。全体としてはほとんど同じようなものですが、メロディ・太鼓の打ち方・伝承されている曲目などが、微妙に違います。そちらの方の本家本元は消え去ってしまったようなので歴史的なことはわかりませんが、知多中北部・三河西部・名古屋北部などのかなりの部分がそれにあたります。詳しい違いに関しては、宮流神楽の分類のページを見てください。


 補足説明

熱田神宮西門にある菊田雅楽器店の方は、鏡味右内と一緒に亀崎へ宮流神楽を伝授しに行った菊田金太夫の子孫で、熱田神楽宗家を起こした菊田斎女と菊田金太夫は親戚関係にあります。明治2年から店を始め、先代の菊田金一郎(雅号:菊田束穂)氏は、重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に選定されました。

菊田斎女(明治42年10月17日没)の年齢に関して、明治4〜5年生まれという言い伝えもあるようですが、息子(隼之助、昭和4年8月5日に78歳で逝去)と孫(斎禄、昭和39年5月10日に83歳で逝去)の年齢から考えて、明らかに間違いでしょう。おそらく、文政年間(1818〜1830)の後半ぐらいの生まれと思われます。
息子が1851年生まれ(加藤鎌吉と同じ年)であることは確定しているので、息子が生まれたときに18〜36歳だったと仮定すると、1815〜1833年の間、もう少し幅を狭めて息子が生まれたのが20歳代とすれば、1822〜1831年ということになります。1909年に死んでいますが、死んだときに90歳以下とすれば1819年以降の生まれ、85歳以下とすれば1824年以降の生まれとなります。つまり、広く見て1819〜1833年、おそらく1820年台後半の生まれということになります。

「宮流神楽」と「熱田神楽」という言葉ですが、実際には、この2つはほぼ同じものを指しています。
菊田斎女〜鏡味鉦之助の熱田神楽宗家、およびその正統を受け継いだ笠寺保存会に関連した方達は、・蛯ノ「熱田神楽」という言葉を使っています。ただ、巫女神楽だけでなく、お囃子や能管の曲まで含めてしまうこともあるようで、範囲はやや曖昧です。笛は、菊田楽器店がそう呼んでいるせいか、笠寺系の方も宮流神楽笛と呼んでいるようです。
知多北部〜三河西部の方達は、自分の神楽が分布している地域と接して、旭流神楽・大和流神楽・伏見屋流神楽など、別の神楽の地域が存在しています。そのため、自分達の神楽を他の流派から区別するために「宮流神楽」と呼んでいます。通常、お囃子や能管の曲は含めず、巫女神楽だけを宮流神楽と呼んでいます。

宮流神楽・熱田神楽に関連する石碑は、七所神社、津賀田神社、笠寺観音にあります。 −> 石碑のページ



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