亀崎における神楽囃子は、宮流神楽が急速に広まった時期以前の江戸幕末の頃に、熱田神宮社家の鏡味右内らによって伝授されたと言われています。
以下は、半田市誌祭礼民俗編(1984年)からの引用です。
「亀崎地区石橋組、中切組には、それぞれ、文久三年(1863)、文政十年(1827)からの祭典役割帳が現存しており、江戸時代(幕末)からの囃子の系譜を知る唯一のよりどころとなっている。
まず、石橋組においては、役割帳の中で、元治二年(1865)に但馬数太夫、慶応二年(1866)に但馬数太夫・菊田金太夫、そして明治五年(1872)から明治十年(1877)までの毎年、但馬数太夫が現れている。しばらく年月を経て、明治十六年(1883)に菊田守穂、明治十九年(1886)には長岡数太夫という人物が記載されており、合計4人が10度石橋組へ来ている。
次に中切組については、文政十年(1827)および文政十二年(1829)に大原紋二、安政五年(1858)に鏡味右内、また、安政七年(1860)には再び鏡味右内並びに大原官太夫、明治に入り、明治十五年(1882)に師範として鏡味右内、副師範として菊田隼之助、そして明治三十四年(1901)に鏡味薫が笛の教頭として記載されている。特に鏡味右内については、安政五年から明治三十年頃まで実に40年近くにわたり、毎年のように囃子の指導にあたっている。中切組の記録が天保三年(1832)から安政三年(1856)まで空白があるので、鏡味右内はそれ以上の期間にわたり指導に来ているのかもしれないが、いずれにしても右内は生涯を通じ、中切組の囃子の指導にあたった人物であると共に、前に述べた宮流神楽を伝授した人物と考えられ、亀崎地区の祭り囃子に及ぼした影響は、ことのほか大きいものがある。
その他の記録として、わずかではあるが、西組では、「今から百五十年前に熱田神宮宮司丹波但馬守が両三年にわたり、笛・太鼓・鼓にて、中の前の曲を伝授した」と記載されている。中の前の曲がどの曲かは明らかではないが、鼓が入っているところからみると能管を用いた曲であろう。」
安東和雄氏の話では、
「熱田にはもともとサナエとカンタロウという2人の名人がいて、亀崎はサナエの方ではなくカンタロウの流儀がひろまったものである。だから、昔は宮流ではなくてカンタロウ流神楽と呼んでいた時代もあった。」(注:サナエは斎女のことか?)
これに関連した私の感想ですが、
亀崎の各組にはそれぞれ宮流神楽を編曲した打ち囃子がありますが、打ち囃子の方は、太鼓も笛のメロディも熱田笠寺系(サイメ系)のように聞こえます。最初に宮流神楽を亀崎に伝えた鏡味右内はおそらくサイメ系と思われ、打ち囃子はその時点で編曲されたのかもしれません。そして、その後に、カンタロウ系の宮流神楽が入ってきて、サイメ系と入れ替わって現在に至っているような気がします。
安東文雄氏の話では、
「その昔、亀崎では、おなじ神楽の曲でも各町内でバラバラの吹き方だった。そこで、船橋政一氏(明治34年前後の生まれ)が名古屋へ行って、コンドウエンジロウ氏に神楽を習い、それをもとに間瀬昇氏が楽譜を作った。各町内がその楽譜を元に練習するようになり、現在ではどこの町内でも神楽は同じ吹き方である。」
安東兄弟(文雄氏が長男、和雄氏が三男)は、現在、知立で神楽の指導を行って頂いている方たちです。
安東和雄氏は、新美喜郎九・船橋政一、及び父親の安東芳太郎(明治29年生まれ)に笛を習いました。笛を習い始めたのは、昭和22年頃で、文雄氏(お兄さん)より少し前だったそうです。文雄氏は、神楽は船橋政一から、囃子は各組の先輩から習ったそうです。
文雄氏は、夏祭りの曲も先輩から習ったようで10曲中六法以外の9曲は太鼓も正式に習ったそうです。和雄氏は船橋政一からも夏祭りの曲を教えてもらったそうですが、文雄氏の話では、船橋政一氏が夏祭りの曲を吹いているのはあまり聞いたことが無いとのことです。 |