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宮流神楽の歴史 (その他の地域)


尾張・三河西部には広い範囲に宮流神楽が普及しているはずなのですが、なかなか情報が集まりません。以下は、手元にある資料からの抜粋です。このHPを見た方のところで何らかの言い伝えがありましたら、是非メールください。
種々のデータから推測される名人の生年は、以下のようです。
  荒川関三郎 明治30年生まれ(1897)
  長谷川佐一 明治31年11月23日生まれ(1898)
  船橋政一 明治34年・i1901)ぐらい
  幸村元一 明治37年2月25日生まれ(1904)

 知多での歴史

亀崎 (半田市)
亀崎における神楽囃子は、宮流神楽が急速に広まった時期以前の江戸幕末の頃に、熱田神宮社家の鏡味右内らによって伝授されたと言われています。
以下は、半田市誌祭礼民俗編(1984年)からの引用です。
「亀崎地区石橋組、中切組には、それぞれ、文久三年(1863)、文政十年(1827)からの祭典役割帳が現存しており、江戸時代(幕末)からの囃子の系譜を知る唯一のよりどころとなっている。
まず、石橋組においては、役割帳の中で、元治二年(1865)に但馬数太夫、慶応二年(1866)に但馬数太夫・菊田金太夫、そして明治五年(1872)から明治十年(1877)までの毎年、但馬数太夫が現れている。しばらく年月を経て、明治十六年(1883)に菊田守穂、明治十九年(1886)には長岡数太夫という人物が記載されており、合計4人が10度石橋組へ来ている。
次に中切組については、文政十年(1827)および文政十二年(1829)に大原紋二、安政五年(1858)に鏡味右内、また、安政七年(1860)には再び鏡味右内並びに大原官太夫、明治に入り、明治十五年(1882)に師範として鏡味右内、副師範として菊田隼之助、そして明治三十四年(1901)に鏡味薫が笛の教頭として記載されている。特に鏡味右内については、安政五年から明治三十年頃まで実に40年近くにわたり、毎年のように囃子の指導にあたっている。中切組の記録が天保三年(1832)から安政三年(1856)まで空白があるので、鏡味右内はそれ以上の期間にわたり指導に来ているのかもしれないが、いずれにしても右内は生涯を通じ、中切組の囃子の指導にあたった人物であると共に、前に述べた宮流神楽を伝授した人物と考えられ、亀崎地区の祭り囃子に及ぼした影響は、ことのほか大きいものがある。
その他の記録として、わずかではあるが、西組では、「今から百五十年前に熱田神宮宮司丹波但馬守が両三年にわたり、笛・太鼓・鼓にて、中の前の曲を伝授した」と記載されている。中の前の曲がどの曲かは明らかではないが、鼓が入っているところからみると能管を用いた曲であろう。」

安東和雄氏の話では、
「熱田にはもともとサナエとカンタロウという2人の名人がいて、亀崎はサナエの方ではなくカンタロウの流儀がひろまったものである。だから、昔は宮流ではなくてカンタロウ流神楽と呼んでいた時代もあった。」(注:サナエは斎女のことか?)

これに関連した私の感想ですが、
亀崎の各組にはそれぞれ宮流神楽を編曲した打ち囃子がありますが、打ち囃子の方は、太鼓も笛のメロディも熱田笠寺系(サイメ系)のように聞こえます。最初に宮流神楽を亀崎に伝えた鏡味右内はおそらくサイメ系と思われ、打ち囃子はその時点で編曲されたのかもしれません。そして、その後に、カンタロウ系の宮流神楽が入ってきて、サイメ系と入れ替わって現在に至っているような気がします。

安東文雄氏の話では、
「その昔、亀崎では、おなじ神楽の曲でも各町内でバラバラの吹き方だった。そこで、船橋政一氏(明治34年前後の生まれ)が名古屋へ行って、コンドウエンジロウ氏に神楽を習い、それをもとに間瀬昇氏が楽譜を作った。各町内がその楽譜を元に練習するようになり、現在ではどこの町内でも神楽は同じ吹き方である。」

安東兄弟(文雄氏が長男、和雄氏が三男)は、現在、知立で神楽の指導を行って頂いている方たちです。
安東和雄氏は、新美喜郎九・船橋政一、及び父親の安東芳太郎(明治29年生まれ)に笛を習いました。笛を習い始めたのは、昭和22年頃で、文雄氏(お兄さん)より少し前だったそうです。文雄氏は、神楽は船橋政一から、囃子は各組の先輩から習ったそうです。
文雄氏は、夏祭りの曲も先輩から習ったようで10曲中六法以外の9曲は太鼓も正式に習ったそうです。和雄氏は船橋政一からも夏祭りの曲を教えてもらったそうですが、文雄氏の話では、船橋政一氏が夏祭りの曲を吹いているのはあまり聞いたことが無いとのことです。


 知多北部での歴史

大府市北崎町(長谷川佐一氏)
以下は、かなり以前の、あるラジオインタビュー(長谷川佐一氏が84歳のとき)からの引用です。
「現在のところ詳細なことはわかりませんが、大体150年くらい昔、熱田の伝馬町または古渡あたりの方で「サイメ」という方と「サンタロウ」という方がこちらにみえて、たまたまその方たちが笛が上手であったために、こちらの若い衆あたりがその方に笛を教えてもらったのが、そもそもの始まりだったという言い伝えです。
それから当分の間、三代くらいは著名な師匠さんは無かったけれど、皆よく覚えて伝えていました。現在わかっているところでは、シズオキイチタロウという床屋さんの方でトコイチと呼ばれている方が上手だったそうです。その次が、コンドウマサジロウという現在生きていれば104歳ぐらいの方で、その方が長谷川佐一さんの師匠です。そのコンドウマサジロウさんから長谷川佐一さんが伝承して、現在18曲ぐらいの曲を習得され、現在こうしてかくしゃくとして元気で笛を吹いていられるわけです。」

長谷川佐一氏(明31.11.23生)は、知立神社神楽保存会の会員でもありました。

大府市横根町
以下は、昭和53年11月3日発行の神明神楽囃譜集(指導:長谷川佐一、編集:大島孫作(明治36年1月9日生))の序文からの引用です。
「明治の初め頃、塚本富右エ門さん、大島安三さん等が熱田の宮へ、御神楽を習いに行かれたそうです。
その後、神谷伊兵さん、大島玉吉さん、加納升戊さん、永坂小一さん、山口桂さん、加藤栄三さん等多数の先輩が居ら・黶A祭礼もにぎやかでしたが、去る昭和46年山口桂さんが永眠されてから、祭礼も笛、太鼓が聞え無くなりさみしくなりました。そこで、囃をやる者として、其責任を感じ、去る昭和51年9月より、長谷川佐一さん宅へ行き、御願いしてテープに吹き込んでもらい、亦度々教えてもらって、本日此迄に楽譜が出来上がりました。」

追分藤井神社 (大府市)
昭和57年に拝殿が建てられてからは、元旦、2月第2日曜日、10月第2日曜日に神楽が奉納されるようになりました。ただ、現在の会長さんは戦前に笛を覚えたそうで、青年団を中心にかなり以前から宮流系の神楽が奉納されていたようです。北崎町にも練習に行ったことがあるそうで、長谷川佐一さんとの交流もあったようです。


 西三河南部での歴史

知立神社 (知立市)
知立神社では、毎月旧暦のの21日に宮流神楽が奉納されており、年に数回あるお祭りの時には巫女舞もあり、三河の宮流神楽のひとつの拠点です。人の往来も多く、幸村元一氏などが指導していた時期もありますが、現在は亀崎出身の安東文雄氏・安東和雄氏兄弟が指導しています。以前は、大府の長谷川佐一氏もときどき来ていたことがあるそうで、長谷川佐一氏の弟子の近藤さんや池田さんは、現在、知立の神楽保存会の会員になっています。

知立神社神楽保存会は、知立神社周囲の町内、つまり知立神社の例大祭で山車を出している町内の会員は、わずかです。これは、近隣町内で笛や太鼓をやっている方たちは、自分の町内の山車囃子や、重要無形文化財となっ・トいる山車文楽の伴奏の方に行ってしまい、神楽の演奏の方に来ることが少ないからのようです。
また、以下の小島益吉氏の話にあるように、知立神社の宮流神楽は、古くは、豊田市中田町や知立市八橋町(知立神社からはかなり離れており、かきつばたで有名な日吉山王社がある)のメンバーが中心となってやっていた時期があるということも関係しているようです。ただ、逆に言えばそのために閉鎖的な要素が少なく、あちこちで笛や太鼓をやっている人たちが集まって、切磋琢磨している状態になっており、ある意味では異色な存在の神楽保存会です。実は、私(名古屋市瑞穂区)や音源ページで笛を吹いてくれた早川くん(名古屋市緑区)も、練習に参加しています。

小島益吉氏の話では、
「知立神社宮流神楽保存会ができる前は、豊田市中田町の若い衆が来て神楽やっていて、豊田市中田町の粂義和氏(くめよしかず、明39.10.2生)が笛の指導していた。太鼓は、中田町の近藤金作さん・近藤弘さんなどがいた。(小島益吉氏はこの方たちに、最初に太鼓を習ったそうです)
そのあと、知立市八橋町の高井錦一氏(明35年頃生)が来て、笛の指導していた時期があった。八橋には太鼓の竹内官治氏(明治34年生)もいた。また、現会長の林周吾氏の父親である、八橋出身の林健一氏(明38.1.28生)も、太鼓のメンバーだった。
その頃までは、神楽は本殿の中で演奏していたが、伊勢湾台風の7〜8年後に、知立神社に神楽殿が出来た。そして、そのうちに知立神社神楽保存会が正式に発足した。
保存会の初代会長は高木三次氏(明32.8.4生)で、笛の指導は主に日進町岩崎の幸村元一氏(明37.2.25生)が担当していた。この頃には、大府の長谷川佐一氏(明31.11.23生)も、ときどき顔を出していた。
二代目会長の神谷好雄氏(明42.3.7生)は、幸村版の楽譜を採譜した人で、、平成12.5.23に92歳で亡くなっている。
現在の会長である林周吾氏は、三代目にあたり、在任期間は最も長い。」


 西三河北部での歴史

幸村元一氏
幸村元一氏(明37.2.25生)は安城市二本木の生まれで、その後ずっと日進市岩崎に住んでいましたが、知立神社の指導もされていました。知立神社宮流神楽保存会会長の神谷好雄氏の採譜により、昭和56年8月(幸村元一氏77歳)、宮流神楽笛譜が発行されています。

安東和雄氏の話では、
「幸村元一氏と亀崎の船橋政一氏(先代の船橋氏)は、二人とも名古屋に住んでいたコンドウエンジロウに笛を習った兄弟弟子で、幸村氏より船橋氏の方が2〜3歳年上だった。コンドウエンジロウさんは幸村元一氏と同じく米屋だった。なお、長谷川佐一氏は幸村元一氏より5歳ぐらい年上だった。」

以下は、平成4年6月4日(幸村元一氏88歳)に撮影されたビデオテープからの引用です。
「古くから熱田の地を中心に熱田里神楽が盛んに演じられてきました。時代が移り変わるとともに、これらを演奏できる方が極めて少なくなりました。今回、この宮流神楽の数少ない伝承者の一人、幸村元一さんに笛の演奏を御願いいたしました。神楽は笛と太鼓、そして巫女などの舞と共に演じられて成り立っています。笛だけの演奏は、神楽本来の味わいとはかなり違っていますが、その技法をじっくり汲み取って頂ければ幸いに思います。
幸村元一氏は愛知県安城市に生まれ、15歳のときに神楽の道に入りました。22歳の時には、すでに100人を越える人たちに教えていましたが、さらにこの道に精進しました。その卓越した演奏で、名古屋市内を始め西三河の各地でも幅広く活躍し、また、雅楽にも深く通じていて、結婚式場などでの演奏も行っていました。」

幸村元一氏は、90歳を過ぎても元気に笛の演奏を行っていましたが、平成13.9.18に97歳で亡くなられました。

日進市
日進市内には、浅田、梅森、北新町、岩藤、本郷、岩崎、野方、などに神楽保存会があり、伝承されているようです。聞いてみると宮流神楽であることは確かですが、笠寺系・亀崎系のものからは少し離れているようです。史料はありませんが、熱田神楽宗家ができる以前の江戸後期〜末期ぐらいに伝わって伝承され続けているのかもしれません。なお、手元の資料では、岩崎と野方の保存会に宮流神楽があるのかは不明です。
また、お囃子系の曲は、笠寺保存会と同じと思われる曲(有松・祇園囃子・植田囃子・庄中囃子など)も演奏されていますが、太鼓は刈谷・安城・碧南を中心に広がっているチャラボコの影響も受けている感じがします。

郷土の芸能(日進町民族芸能連合会編、1991)によれば、「
浅田保存会(八劔社祭礼): 旧浅田村の氏神、八劔社奉祀後、旧香久山村地域に始まった通称「はやし神楽」を浅田青年会が継承し、戦前までは八劔社祭礼に神楽を奉納し、夏季には堤燈祭りを6回にわたり盛大に行っていたが、太平洋戦争のため中断。昭和26年、福安一春氏らが神楽を復活させて八劔社祭礼にて活動を行い、昭和61年7月、保存会の発足に至った。大字梅森に継承されている神楽が浅田地区の神楽に類似しているが、古老の話によれば、明治時代、浅田青年会が大字梅森に神楽を伝授したことがあったと言う。曲目は、三人まい、まきわら、ありまつ、神楽、神明神楽、はやし。
梅森神楽保存会(八幡社祭礼): 神楽がいつ頃から始まったかははっきりしないが、保存会の太鼓に文政10年(1827)の墨書があるものがある。昭和初期以前には、夏・秋祭りの他に毎年旧7月に、七夕祭り・お富士さん・お伊勢さんの提灯祭りが行われた。旧7月10日の提灯祭りは、八幡社から宝殊寺へ、15日には宝殊寺から八幡社へ、若衆を先頭に親子が高張提灯(約80個)を持ち、行列を作って歩いた。この行列中央で若衆が囃子太鼓を鳴らし、一節が終わるごとに「ヨーイコソウライ」と掛け声をあげた。八幡社に到着すると小提灯のともされた五重塔が木遣とともに引き上げられた。これらの行事は、昭和16年頃から中断されたいたが、昭和55年に神楽木遣保存会が始まり、現在の保存会に引き継がれている。曲目は、神楽、三人舞、名無し、巻わら、神明神楽(一本目、二本目、三本目)、有松。打囃子の道引、三下り、早道。
野方囃子保存会(堤燈とぼし、秋祭): 堤燈とぼしは、高張堤燈(約20個)の行列中央にお囃子演奏者が入り、午後6時頃に豊龍院から観音堂に向けて出発する。その間、囃子が演奏されるが、これらの曲を総称して道行と呼ぶ。秋祭りでは、オマント(現在は馬形に標具をのせたもの)が、正午に公会堂を出発して神明社に向かい、宮に近づくと囃子を始める。馬が本社の周りを3回まわり、そして囃子が奉納される。昭和50年頃、保存活動が開始されているが、現在は道行きのみで神楽の練習はしていない。
本郷民俗伝統芸能保存会(東陽寺、白山宮): 明治15〜30年には敬心組が組成され、明治30年〜昭和16年頃までは、青年会により結成された敬心組が祭りを運営していた。戦中は中断されたが、昭和23〜30年までは青年会によって継承されていた。青年会消滅後、有志による保存会が結成され、今日に至っている。活動は、正月、7月の津島祭・伊勢祭・茅の輪祭、8月の夏祭、10月の秋祭。巫女舞(鈴の舞・露の舞・くずの舞・四方の舞・牛若の舞)あり。曲目は、神楽(四方正面・津島返し・神明(上)(下)・花かがり・牛若)と、お囃子(本郷はやし・早拍子、新しぐれ、しゃきり、どろ、径行き)。
岩藤文化財保存会(岩藤天王祭): 7月下旬の岩藤天王祭では、善光寺堂前から神明社境内にある天王社まで、お囃子台を先頭に山車が曳かれる。太鼓囃子はこの道中及び境内で演奏される。」

日進町本郷の白山神楽奉賛会の小塚保則さんの話では、
「本郷の神楽は、もともと旧神楽で行っていたが、私の兄(明治38年生まれ)ともう1人の方が幸村さんの神楽が素晴らしいと言うことで、昭和初期に、近くの岩崎神明に住む幸村元一さんの元で宮流神楽9曲と巫女舞いを習い今日に至っている。
現在、巫女舞い指導は白山宮の禰宜 森洋子氏の指導の元に行っている。森さんは、神職の家に生まれ幸村元一さんから巫女を習い奉納していた。
白山神楽奉賛会の曲は、神迎え・ご神前・神明(上・下)・津島返し・新車・月矢車・矢車・花かがり。しかし、現在は、このうちの3曲しか吹いていない。」

豊田市
豊田市内には、八草町の八柱神社(八草神楽)、中根町の中根神明宮(中根里神楽連)、堤町の堤八幡宮(宮流神楽舞太鼓)などに、宮流神楽系の神楽保存会があります。この3つの神社では、巫女舞も合わせて奉納されているようです。

高岡町(中根町と堤町の中間)にも宮流系の神楽保存会があって、最近、神楽殿が新しくできたそうです。
中田町(中田大国霊神社、はだか祭りで有名)では、以前、(かなり前に亡くなられた)粂義和さん(くめよしかず、明39.10.2生)が名人で、周りの神社に出張演奏していたこともあったらしいですが、現在の状況は情報がありません。

豊田市郷土資料館だよりNo.38(2002.1)からの引用
「堤町の酒井信男さん(86歳)は、今では少なくなった里神楽を伝承する師匠のひとりです。45歳で知立八ツ橋の宮流神楽舞太鼓3世家元高井錦一師匠に師事し、現在4世家元を継承しています。宮流神楽舞太鼓の稽古は礼の稽古と言い、稽古は礼儀から始まり、舞、笛、太鼓の順に習います。舞には、「榊の舞」、「鈴の舞」、「扇の舞」、「四方の舞」など9曲があり、小学4年生の女子が巫女として舞を奉納します。また、囃子は、「下がり葉」、「神明」など7曲が伝承されています。」


 名古屋東部での歴史

高針地区 (名東区)
以下は、名古屋市総務局 新修名古屋市史報告書1高針地区民俗調査報告からの引用です。
「氏神の祭礼の時、拝殿で各嶋(六嶋)大字(西山・前山・新屋敷・北島・西古谷・東古谷)が神楽を奉納するこ・ニも大切な行事の一つであった。棒の手同様検査の神楽があり、馬の塔が神社へ上がってから各嶋は順番で二本ずつ演奏したと言う。検査の神楽は検査棒、これらは最初に行うので、おそらく神事の一部に組み込まれていて重要視されてのであろう。
前山では、太平洋戦争後に絶えたままであったのを昭和45年に保存会を結成した。ここでは東古谷から伝承を受けたといわれ、長老の許可がないと神楽は習得することができなかった。主な曲目としては次のようなものがある。サッキョウ、オカザキ、神明神楽、ツキヤカグラ高針で唄われた(とうす挽き唄)に出てくる・・・・馬が六つ出て巫子が舞ふの巫子は、この神楽に合わせ鈴と扇を持って舞った巫子舞いのことである。御神楽も棒の手同様、この地方の祭礼には不可欠なものであった。もともとこの神楽は、熱田神宮の神楽座に属した楽人が明治時代の神社革命まで行っていたものである。だからこの神楽を他では熱田神楽、宮神楽と呼んでいる。猪高村誌には、猪子石では、熱田神宮神楽師から伝授されたのを組衆に教えた。それが後に味鋺村へ神楽の伝授に五人の方が行っている。」

なお、高針の神楽はしばらく途絶えていたようですが、大鐘和久氏らの努力によって高針熱田神楽保存会が再び結成され、名古屋市名東区高針の高牟神社(高針小学校横)にて、平成18年秋より巫女舞を含めて復興し、現在に至っています。

志段味地区 (守山区)
以下は、志段味地区民俗調査報告書(名古屋市教育委員会、1989年)251ページからの引用です。
「志段味地区ではどのムラにも神楽(神楽太鼓)があり、吉根の太鼓には、文化2年(1805年)と文政10年(1827年)の銘があり、そのころにはすでに存在していたと思われる。神楽は若い衆(青年会)によって行われた。青年会の中に神楽長がおり、神楽継承の指揮にあたった。神楽は曲目が多く、全曲を習得することは、青年会が活躍していた時代でもなかなか困難であった。吉根では、神楽の囃しが崩れてきた大正8年に、全曲完全継承を・閧チて、神楽師匠の柴田銀三が当時の青年会に教えてている。道行太鼓は全曲習得できたものの、神楽は14曲のうちの7曲が習得できたに過ぎなかった。
下志段味・中志段味は、青年が徴兵で少なくなってきた戦時中に、吉根では昭和20年、上志段味は昭和30年ごろに神楽は止まった。その後、戦後の動乱期を乗り越え、生活も安定してくると、神楽復活の声が上がり、昭和40年代には各ムラから神楽囃しが聞えるようになった。しかし、青年会は解散し、これを継承する基盤はまだ生まれていなかったため、神楽保存会を結成することになった。中志段味では昭和50年、上志段味では51年、吉根では52年に設立されている。・・・・・。なお、下志段味では保存会は結成されていないが、現在、神楽は有志(経験者)によって、氏神に奉納されている。」

実際に曲を聞いてみると、宮流神楽であることは確かですが、現在の笠寺・亀崎などのものからはかなり離れています。文化年間・文政年間に演奏されていた神楽が現在のものと同じかどうかはわかりませんが、かなり古い時代に伝わり、熱田神楽宗家・笠寺保存会などの影響を受けずに伝承されてきた可能性が高いです。

中根東八幡社 (瑞穂区)
中根東八幡社は私が氏子をしている神社で、瑞穂区にある小さな神社です。
以前から神楽の伝承はあったが、伊勢湾台風(昭和34年)の頃に途絶えてしまったらしい。ただ、昭和33年10月26日録音のテープ(全部で13曲、神楽師は村上繁三・村上信太郎・坂野鉦吉・村上春次郎・村上仙太郎、いずれも当時60歳台ぐらい)が残されていた。その方たちは、その親の世代あたりから神楽を受け継いだらしいが、それ以前のことはわからない。昭和50年頃より、佐竹正治氏の指導の下に、再興されているが数曲のみである。
曲のメロディや太鼓は、笠寺保存会に近いものが多いですが、かなり離れたものもあります。

津賀田神社 (瑞穂区)
以下は、名古屋郷土叢書第四巻堀田郷土史からの引用。
「大山車の創建の年月は詳かではないが、其の中の箱書に安永年間(1772〜1781)に改作せられた事が記されているから、安永以前からあったことは知られる。この大山車は天白川の氾濫が止まるようにとの神願いのために建てられたのだと言い伝えられている
山車は十五才より二十五才までの若連中、二十六才より三十才までの中老、三十一歳より四十才までの大中老の者が曳くことになっている。その中、二十五才の者から横髪になる者が定められる。この横髪になる者は、この山車の囃子方になるのである。麻の水色の単衣の絽の黒羽織を着て、笹で作られたざいのようなものを振り振り囃子の音頭をとるのである。
恵比須、大黒、山武士、唐子、獅子、蛇、おかめの偶人があって、神楽笛に合わせて踊る。その笛の曲の中、唐子の舞の笛の曲新車を福井松四郎氏が作曲せられ、太鼓の曲は松四郎氏、渡邊新吉氏等により、弘化年間(1844〜1848)に案出せられ、今に名曲として伝えられている。今、松四郎氏等のこの功績を伝えんがために、一碑が弘法堂境内に建てられている。」
後半は、笠寺保存会に伝わる新車という曲の成立にかかわるもので、この内容は、津賀田神社にある石碑にも書かれています。

神楽囃子は、笠寺系の宮流神楽の、さっきょう(佐京)、さんみつさがり(おかめ)、つかいぐるま(月矢車)、天神囃子(お天道)、神明神楽(神明神楽)、猿返し(天狗)、矢車(矢車)などがあり、お囃子の、祇園神楽(祇園囃子)、早目(早目)、新車(新車)、早道(早道)、道行(道行)、太神楽(一社)、おかめ人形の人形囃子(おかめ)、恵比寿大黒の人形囃子(神宮皇)などもありました。(カッコ内は笠寺での呼び名)

詳しいことは、津賀田神社の山車・お囃子の由来のページを見てください。


 名古屋西部での歴史

比良六所神社天王祭
比良六所神社は、河北の二福神車と河南の湯取神子車(いずれも東照宮祭系で文政年間の建造)の2つの山車ある、祭りが盛んな地域です。山車の出る祭礼は10月の第3日曜日ですが、夏にも天王祭という山車の出ないお祭りがあります。その天王祭の方では、山車囃子では使わない別の神楽が奉納されていますが、よく聞いてみるとすべて宮流神楽でした。
ただ、地元の人に聞いてみても、伝わった由来に関しては、河北の人も河南の人もわからないという返事でしたし、宮流神楽とか熱田神楽とかいう言葉も聞いたことが無いようでした。
山車の方は、こちらのサイトを見てください。 -> http://www.ne.jp/asahi/no/va/owari/hira/

伝わっている曲は、河北は、舞神楽、宮神楽、七夜の舞、六本くずし、天狗、つるぎ、神明の7曲で、河南は、六本くずし、てんぐるま、津島、神明の4曲です。 ただ、河南は高度成長の頃に一度すたれてテープで曲を流していた時代があり、その前は5曲あったらしいが1曲は消えてしまって、今ではその曲は名前すらわからないとのことです。
河北と河南は保存会も別々で、互いに相手の曲は聞いてもメロディも名前もわからないようです。天王祭では、河北と河南の保存会が2曲ずつ交互に奉納していました。

面白いのは、太鼓は完全に亀崎・知立・大府系で、河北のつるぎ・河南の津島(ともに御神前/三みつ下がりの相当)でも、大太鼓1つ目からフレーズが始まります。また、六のひとつ上の音の指遣いも、笠寺系の◎●●●●●●ではなく亀崎系の○●●○●●●を使っています。
なお、聞きに行った日には、神楽が舞神楽(神迎え/おかめに相当)から始まったので、舞神楽に神様を迎える意味があるのかと思ったのですが、地元の人に聞いてみたらそれはたまたまで、特に奉納する・ネの順番は決まっていないとのことでした。

牛立天王祭
名古屋市山車調査報告書3牛頭天王車(名古屋市教育委員会)25ページからの引用です。
「・・・・、これらの神楽囃子は、地元では熱田神宮の流れを引く、宮流の神楽であると伝えている。・・・・・。お囃子は牛立町全体で伝え、大年番と関係なく祭礼のおりに奉仕している。昭和40年頃、一時囃子方が少なくなり、南区笠寺(宮流の神楽を伝承している)から応援を頼んだりしたこともあったが、当時、地元での伝承者大矢勝次郎氏によって若い人への伝承がはかられ、現在、4名の伝承者がいる。」


 その他の愛知県での歴史

国府宮(稲沢市)
かなり以前は、知立神社のメンバーが国府宮に出張演奏に行っていた時期があったそうです。ただ、現在は雅楽の方に変わってしまって、宮流神楽は演奏されていないらしいです。


 三重県での歴史

多度大社 (桑名郡多度町)
上げ馬神事で有名な神社ですが、神楽は宮流で、現在も笠寺保存会が出張演奏しています。


 岐阜県での歴史

護山神社 (恵那郡付知町)
新修名古屋市誌第九巻民俗編711ページからの引用
「天保9年3月の江戸城西の丸炎上による造営のため、木を伐採しようと裏木曽へ入ると、種々の異変が続いたので、幕府が尾張藩に命じ山の神を祀らせた。しかし、場所があまりにも奥だったので、天保14年、現在地に社殿を造営した社が護山神社である。拝殿は本殿の御垣から少し離れて切妻を正面に向けて建っており、これは尾張地方の社殿配置の影響を受けたものである。また、祭礼の楽人は熱田宮から来ていたという。その関係が今でも続いており、尾張色の濃い社となっている。
例大祭は4月25日であったが、平成8年から4月第4日曜日に変更された。拝殿では2人の神子による太々神楽を終日行っている。願主が祈祷のため、拝殿に座すと神楽が始まり、式正・榊の舞・式正の順で舞い、終わると神子の一人が願主の頭上で鈴を振る。その神子は地元の子供が勤めている」

現在でも、笠寺保存会から太太神楽を出張演奏しているそうです。



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