トップページへ
熱田太々神楽

熱田太々神楽の神楽歌は −> こちらのページ
 はじめに

熱田太々神楽は、採り物を持った巫子(男女)が舞を行う巫子神楽の一種で、天の岩戸の物語をモチーフとした14座の舞が伝わっています。最初は、熱田の神楽師が京都へ行って習ってきて、1711年に熱田神宮で始めたものなのですが、江戸時代後期〜幕末になると、それが尾張地方全域に広がり、各地で盛んに行われるようになりました。
しかし、明治維新の混乱で中止されたところも多く、世の中の近代化につれて行われなくなった地域も多く、現在では、熱田・笠寺系の2ヶ所、常滑の4〜5ヶ所、一宮真清田神社の1ヶ所の3系統しか残っていません。また、14座すべてを一度に行っているところは、どこにもありません。
このページは、熱田・笠寺に残されている資料をもとに、わずかに残っている熱田太々神楽を比較研究しようと考えて書き始めたものです。このページに書いていない新しいことをご存知の方は、ぜひご連絡の方をお願いいたします。

Youtubeにアップしました。
   熱田太々神楽(前半)−氷上姉子神社(名古屋市緑区)−
   熱田太々神楽(後半)−氷上姉子神社(名古屋市緑区)−

 熱田太々神楽の歴史

熱田太々神楽は、正徳2年(1711)2月14〜15日から始まったことは、文献などから確実と思われます。ただ、もともと熱田にあったものではなく、他所から習ってきて始めたと伝えられています。
始まりの年月に関しては、後述の「尾張国元正編集筆記・vだけでなく、天野信景の書いた「塩尻」や、朝日文左衛門重章の書いた「鸚鵡籠中記」などの資料にも同様に書かれています。ただ、習った先に関しては、高力種信(1775〜1831、猿猴庵日記の作者として有名)の著した「尾張年中行事絵抄」には、熱田の太々神楽は江戸芝神明の飯盛流をかたどったものと書かれており、別の説もあるようです。

「尾張国元正編集筆記」に書かれた記述は、私が現代語訳してみましたので、次のセクションを見てください。これによれば、曲や舞の詳細は不明ですが、京都で持明院家(藤原北家頼宗流の公家で、家業は能書・神楽・鷹匠)に関係したところから習ってきたようですから、宮中の音楽に似た、雅楽風のものだったように思います。おそらく、宮中の「御神楽の儀」に近いもので、公家や上級武士が自分の屋敷に楽人を呼んで執り行わせた、内神楽の一種だったのではないかと考えています。

楽器は「鞁三丁、笛、太鼓の三種類」となっており、笙・篳篥・和琴などは出てこないシンプルな構成です。「笛」という記述は、おそらく神楽笛か竜笛を指していると思われ、確かに常滑や一宮では竜笛が使われていますが、熱田・笠寺関係では、現在は能管が使われており、なぜかははっきりしません。

このように、太々神楽は熱田神宮で正徳2年(1711)に始まったのですが、正徳2年は元禄文化が上方(京都・大阪)を中心に花開いていた時期であり、熱田の神楽座の人が上方へ習いに行ったのもうなづけます。ただ、元禄の頃というのは、庶民的な側面が現れてきた時代であることは確かですが、文化的にはまだ裕福な町人と武家が主体となっており、太々神楽の当初の形は、かなり格式を重んじた構成になっていたのでしょう。

その後、名古屋市史によれば、江戸時代後期に大改革が行われたようです。文政5年(1822)に、社家が発起となって新太々神楽を始め、その絵図を高力種信(1775〜1831、猿猴庵日記の作者)が描いて、江戸をはじめとする諸国へ広めたらしいです。確かに、猿猴庵日記の中にも太々神楽は描かれています。

この大改革に関しては、興行上なのか演出上なのか、どのような変化があったのかははっきりしません。現在の笠寺系で行われている太々神楽が改革後のもので、常滑や一宮のものが改革前の形であると仮定すれば、雅楽風の伴奏が能楽風になり、神楽歌も朗詠風から能の謡風に改められたということかもしれません。

ただ、いずれにせよ、文政5年は化政文化の時代の真っ只中で、江戸を中心に本当の意味で庶民文化が大きく花開いた時期です。当然、太々神楽の興行・演出も、時代の流れに対応し、庶民の好みに近いものに変化していったのだろうと思われます。
熱田の宮で行われる太々神楽を見に行くだけでは飽き足らず、周辺の神社で、庶民が自分たちのための太々神楽をやろうという機運が高まり、自分たち独自の講(太々講)を結成し、各地で太々神楽が行われるようになって行きました。 そして、裕福な町人の寄進によって、いろいろな道具がそろえられて行ったのでしょう。

太々神楽は、当初から、神事と言うより現世的な利益を求める祈祷に近いものです。各地で行われるようになった太々神楽も、御師を中心とした祈祷の出張サービスのようなもので、格調高い感じよりも親しみやすい感じの方が優先されて、全体的に簡略化されていったのではないかと、私は考えています。

現在の形に変化してきた理由としては、私自身の考えでは、「全体が長すぎるので、舞の部分の前と後にある神事をシンプルにして、舞が始まる直前に能管伴奏の式正舞を入れ、それまで雅楽風だったのを能楽風にし、曲数も間引いて少なくした。神楽歌も、朗詠風から能の謡風に改めた。」のかなと、勝手な想像をしているのですが、はっきりとした根拠はありません。

各地の太々神楽は、最初は熱田の楽人を呼んで執り行っていましたが、次第に独力で行うところも出現し、それを真似することによって、さらにその周囲に広まって行きました。その広がり方は、このホームページの本論である宮流神楽の広がり方と、共通している面があるのかもしれません。

なお、熱田の宮の太々神楽が行われる日は、旧暦の1月28日でしたが、他の行事予定などでいろいろ変わったようです。これも、高力種信の書いた尾陽年中行事略畫抄に「熱田宮太々神楽は神祭にあらず、顧主数多く講を結び是を執行す」と書かれているように、昔から、年中行事としての神事ではなく、講(参拝同好会のようなもの)を主体とした行事だったからだと思われます。


 「尾張国元正編集筆記」現代語訳 (参考:笠寺資料に原文あり)

「正徳元年(1711)の冬に、熱田で太々神楽をやりたいと役所に願い出て、金三十両を借用して上京。京都で神楽を伝えている持明院家と船橋家にお願いしたところ、熱田からの話なら教えても良いだろうということになり、山邊右近太夫と中村筑後守の二人を紹介してもらった。山邊家では囃子方を習い、中村家では舞方を習い、あとで四家そろっての指導で、磐戸組という神楽十四番を習得した。

楽器は鞁三丁、笛、太鼓の三種類。舞は、男五人と巫女八人で、巫女だけのつれ舞、男舞、男と巫女のつれ舞があった。いろいろな取物を手に持って舞うもので、青白の幣、扇、鈴などを持ったり、巫女が機梭を持ち、男は鍬をかつぐなどの舞いがあり、人長の笑い声を三度することもあった。最後は、注連縄の四手付廻りを行った後、舞人は各自の座に戻るという儀式があり、人々が目を見張るような出し物をそろえていた。

また、岩戸飾りといって、榊の大枝に鏡・玉・錫を付けたものを飾った。これは神代の時代からいわれのあるもので、普通の屋敷では中央に立てるものだが、今回は、熱田にそれに似合う家が無いと言って、わざと神前でとり行うことにし、人々の注目を引くようにした。

拝殿と勅使殿の間に管弦の舞台を借りて、四ヶ所の角に鉾を立てて、幅巾八尺の金襴の幡をかかげ、上は真っ直ぐで下は二つに分かれるようになっていた。舞台の上には、横八間長さ十間の大きさで、桐の紋にからくさを染めた木綿の天幕を張り巡らした。神紋は桐竹なので、それを略したものなのであろう。岩戸飾りは、本社御垣内の祭供殿の内を開き、釣殿の所に立てたので、外からよく見えるように配慮されていた。

太々神楽の催行は異論も多かったので、とりあえず内々神楽と古い名前を使い、内々の二文字を「ダイダイ」と読むということにした。」


 他の太々神楽との関連性

全国に太々神楽と言われているものは数・スくありますが、演劇的なものや大道芸的なものが主で、熱田太々神楽との関連性ははっきりしません。関東地方の太々神楽のうち熱田派と呼ばれるグループも、熱田神宮の社家(鏡味氏)が江戸に行って広めたようですが、いわゆる熱田太々神楽との関連は、あまり見当たりません。

関連があるかもしれないと考えているのは、関西の「浪速神楽」です。

  参考: 浪速神楽研究 ・ 浪速神楽 Wikipedia ・ 巫女舞「難波神楽」 YouTube 
  その他参考 YouTube: 晴明神社宵宮神楽 ・ 静岡浅間神社 ・ 下鴨神社

浪速神楽の起源は伏見稲荷神社説と吉田家説があるようですが、いずれにしても京都にオリジナルがあったようですし、関西では太々神楽とも呼ばれています。
浪速神楽は巫女が採り物を持って舞う神楽で、ストーリーは天の岩戸の話を題材にしています。神楽歌で共通している歌は無いようですが、採り物も、鈴・御幣・榊・杼・鍬・鉾などと共通部分も多く、神楽歌を朗詠してから音楽と舞が始まるところも似ています。
確証は何もありませんが、何らかの関連があるのではないかと考えています。


 熱田・笠寺の太々神楽

笠寺保存会からの出張演奏で、現在も太々神楽が演奏されている神社:
氷上姉子神社 (名古屋市緑区) −−− 式正を含め、7曲の舞を上演。
護山神社 (岐阜県中津川市付知町) −−− 式正と舞3曲。
築地神社 (名古屋市港区) −−− 式正の演奏のみで、舞は無し。
薬祖神社 (名古屋市中区丸の内) −−− 式正の演奏のみで、舞は無し。

文化文政期(1804〜1829)以後、太々神楽は急速に地方にも広がって行きました。熱田神宮はもちろんのこと、各地の神社でも、あちこちで上演されていたと思われます。多くは熱田の楽人の出張演奏だったのでしょう。また、習って独自で上演しようとした地域では、同時に宮流神楽も習ったのかもしれません。

熱田・笠寺での神楽の歴史のページに書きましたが、明治維新とともに、明治8年、熱田神宮の職制が大きく変わり、神楽座の人たちは職を追われて、地方のあちこちに生活の基盤を移さざるをえなくなりました。そのため、太々神楽も、熱田神宮では上演されなくなりました。

明治・大正時代を通じて、残った神楽座社家の人たちや熱田町内の神楽連の人たちは、太々神楽の出張演奏を細々と続けてはいました。しかし、熱田大山祭りが明治後期に衰退してしまったことにより、熱田の神楽師が減少してしまいましたし、そもそも、富国強兵・西欧化へという時代の流れによって、太々神楽の上演自体も減少して行ったと思われます。

昭和5年に書かれた神楽研究 (西角井正慶著)では、「熱田神宮の太々神楽は、明治維新以後中絶していたが、昭和3年より境外摂社の高座結御子神社(熱田神宮から北北西へ1kmちょっとにある)にて、毎年4月3日に崇敬者のために行っている祈祷の際に演奏している」と書かれています。「現在は高座結御子神社の拝殿で行われている」と書かれており、しばらくは続けられていたのでしょう。しかし、高座結御子神社で太々神楽が演奏されたという話は、少なくとも戦後には無さそうです。
また、神楽研究には、「昭和3年に高座結御子神社で行われた太々神楽には、菊田・鏡味両家が奉仕した」と書かれています。しかし、昭和3年は熱田の神楽連はかなり衰退してしまっていた時期であり、本当にそうかどうかは、やや疑問があります。

いずれにせよ、熱田の神楽を受け継いだ笠寺保存会が、現在、出張演奏に行っているのは、上記4ヶ所の神社になってしまいま・オた。しかも、ある程度きちんとした形式を整えて太々神楽を執り行っているのは、氷上姉子神社と護山(もりやま)神社だけです。

氷上姉子神社
氷上姉子神社の太々神楽は、天保2年(1831)に始まったと伝えられています。舞に使われる面の箱書きには、山森源五・久野彦十・浅井惣兵衛・久野藤四良の4人が安政4年(1857)2月に奉納、太鼓の胴には早川源四郎が慶応2年(1866)1月に奉納したと書かれており、幕末の頃に、道具がそろえられて行ったと思われます。
氷上姉子神社では、以前は旧暦の2月20日に行われていましたが、現在では、3月の最終日曜日に行われています。

Youtubeビデオ: 氷上姉子神社の熱田太々神楽(前半)  氷上姉子神社の熱田太々神楽(後半)

舞の順番: 1.式正、2.神かがり、3.かずらの舞、4.矛の舞、5.ほそめの舞、6.笑楽、7.式正

氷上姉子神社の太々神楽は、式正のすぐ次に「神かがり」の舞が行われる点が、他と少し異なっています。神楽歌のページを見るとわかるように、もともと、「神かがり」は巫女が扇または中啓を持って舞うもので、笠寺保存会の古い資料(寛政9年・昭和10年)などにも、そう書かれています。しかし、氷上姉子神社では、男が舞い、しかも四方周囲を祓い清めるような舞(おそらく四方拝を意味している)となっています。
なお、巫女は、以前は笠寺の女子が行っていましたが、最近は熱田神宮から派遣されています。

氷上姉子神社の太々神楽の演奏を受け持っている笠寺保存会では、荒川関三郎氏が昭和の初めに熱田の加藤鎌吉氏から直接伝授されており、笛太鼓の演奏に関しては、最も正統なものと思われます。ただ、太々神楽は文政5年(1822)に大改革が行われており、その改革後の形を受け継いでいるということかもしれません。

護山神社
天保9年(1838)に、江戸の大火で江戸城・西の丸御殿が焼失すると、幕府はその再建用資材を、伊勢神宮の遷宮以外の伐採は禁忌とされていた裏木曽の山に求めました。しかし、事業開始と同時に山鳴り・怪異・山火事などの変事が続出し、将軍自らも妖夢に悩まされました。これは山神の祟りだと人々は言い、幕府はすぐに特使を立てて、切り株のすべてに注連縄をはり、天保11年(1840)には、霊山鎮護を趣旨とする奥社が完成しました。
ただ、奥社はあまりにも山奥だとのことで、天保14年(1843)には、人里に現在の本社(里宮)が完成しています。創建後の神社経営は、幕府から木曾山林を管轄する尾張藩に託されました。そして、熱田の宮から御神楽方が派遣されて、太々神楽が奉納されることが定例となりました。以来ずっと、熱田から(現在は笠寺から)泊りがけで出張演奏に行っています。

舞の順番: 1.式正、2.榊の舞、3.鈴の舞、4.扇の舞、5.式正

上記は、神事の時に行われる形式で、試楽で1回、本祭で午前と午後に1回ずつの全部で3回行われます。
護山神社の太々神楽の面白いところは、参詣人が御神楽料を納めると、その人のために太々神楽が奉納されるというところです。ただ、依頼で行うときは、式正−扇の舞−式正に簡略化されます。
演奏と舞自体は、基本的に氷上姉子神社と同じです。巫女は、地元の小学生が受け持ちます。

音源: 式正 ・ 御座の1 ・ 御座の2 ・ オッピラドンドン ・ 神かがり

この音源は、実際の太々神楽での演奏ではなく、早川真くんが笛を吹き、私が太鼓を打って録音したものです。
御座の1は、氷上姉子神社のかずらの舞に使われ、御座の2はほそめの舞て使われるものです。
実際の氷上姉子神社の太々神楽では、舞の舞台の面積が以前より小さいため、かずらの舞では、最後の部分が省略されて吹かれます。


 常滑市の太々神楽

太々神楽が奉納されている神社の数で比較すれば、常滑地域は非常に多いところです。
以下の記載に関しては、昭和40年頃に書かれた愛知県神社庁知西支部発行の「知多西部地方の太々神楽について」という小冊子を参考にしました。現状と違っていたら、お教えください。

毎年行われているところ:
榎戸神明社: 常滑市榎戸  1月3日午後
常滑神明社: 常滑市宮下  1月7日午前
小倉天神社: 常滑市小倉  2月5日午後
海椙神社: 常滑市多屋  3月21日(春分の日)

平成20年に行われたところ:
白山社: 常滑市小鈴谷  子年と午年の例大祭(4月第1日曜日)

これ以外にも、常滑市内には多数の神社で太々神楽が奉納されていた記録があります。常石神社(常滑市奥条)では、以前、1月2日の午前に奉納されていたが、神職の都合がつかず、祈願祭に変更されてしまいました。天満社(常滑市宮山)3月25日に行われていましたが、現在は奉納されていないようです。熊野神社(常滑市熊野)では、7年ごとに奉納されていたという記録があります。まだ、他にも太々神楽の祭具が残っている神社が、市内にいくつかあるようです。

小倉天神社は、以前は旧暦の1月15日だったようですが、昭和40年は2月17日に行われたと記載されているし、平成20年は2月5日に行われたようで、はっきりしません。榎戸神明社では、以前は旧暦の1月3日だったのが、昭和30年代に新暦に変わったようです。

常滑市小鈴谷の白山社では、昭和29年を最後に途絶えていたのですが、平成20年(子の年)に復興をとげており、これから6年ごとに行われてゆく予定だそうです。

伴奏の笛太鼓ですが、常滑では式正は現在吹く人がいないため、すべて雨だれ調子という曲で行われます。笛は、熱田・笠寺と異なって龍笛が使われ、太鼓も、大太鼓と小鼓です。
また、演奏と男舞は、すべて神職自身が行うところも面白いところです。

音源: 雨だれ調子 ・ 男舞 ・ 常盤

この音源は、2008年3月20日に常滑市多屋の海椙神社(うすぎじんじゃ)で行われた太々神楽を録音したものです。男舞の曲は、「矛」と「面白」で使われ、常盤の曲は、「常盤舞」で使われます。他の舞は、すべて雨だれ調子です。男舞は、熱田・E笠寺の太々神楽のオッピラドンドンに相当します。


 一宮市の太々神楽

真清田神社では、現在、春の神楽始祭(1月2日)と、太々神楽・駒牽神事(10月15日)の2回に分けて太々神楽を行っており、いずれも午前10時からです。

《神楽始祭》1.七五三舞(式掌)、2.鳥居舞、3.火所舞、4.木綿四手舞、5.日蔭舞、6.馬槽舞、7.面白舞
《秋の太々神楽》1.七五三舞(式掌)、2.神懸舞、3.恵楽舞、4.桂舞、5.矛舞、6.細目舞、7.鈴竹舞

神楽歌・採り物は、熱田・笠寺や常滑のものとほぼ同じです。ただ、始まった時代や神社の規模を考えると、尾張地域の熱田系太々神楽としては、化政時代に行われた大改革以前の古い形が残っているのではないかと考えています。

真清田神社史によれば、真清田神社の太々神楽は、天明2年(1782)9月にはじめて行われ、その曲目は鳥居舞以下12曲でした。太太神楽の祝詞は、神主の佐分清河の求めにより、川村秀頴が作成したそうです。天明2年は太々神楽の大改革が行われた化政時代よりも前で、熱田神宮以外としては、かなり古くから太々神楽が行われていたようです。
真清田神社において、「御師」の名称は明和5年(1768)の文献で、「明神講」の名称は寛政6年(1794)の石灯籠で、初めて使われています。「講を結成して御師に祈祷を頼んだ」という社会背景は、やはり真清田神社の太太神楽の始まりと大きな関係があると思われます。
真清田神社では、明治維新のときに一度途絶えてしまいました。正式な神事ではないという理由だったかもしれませんが、熱田の楽人たちが失職して地方に散らばってしまったせいとすれば、真清田神社でもずっと熱田の楽人が出張演奏をしていたとういうことかもしれません。しかし、明治37年に復興し、現在まで続いています。
もともと、太太神楽は旧暦の9月15日でしたが、明治43年からは、新暦の10月15日に変更になりました。
参考ページ: http://www.photoland-aris.com/myanmar/near/116/

音源:・@志米舞・桂舞 ・ 神懸・矛舞 ・ 恵楽舞・細目舞

この音源は、2009年8月23日に、一宮市民会館で行われた「いちのみや民俗芸能のつどい」で録音したものです。曲名自体はよくわかりませんが、上記3種類があり、それぞれの舞に対して演奏されるようです。「神懸・矛舞」は、熱田笠寺の太々神楽のオッピラドンドンに相当するものです。

近くにある尾張大国霊神社(通称は国府宮神社、稲沢市)でも、諸事内記留(文政7〜9年、1824〜6)によれば、8月22日に太々神楽が行われていたようで、このときは、舞人は真清田神社から、神楽師は熱田神宮から派遣されたということです。ただ、現在は正月に太々講の祈祷はあるものの、太々神楽自体は行われていないようです。


 その他の地域の太々神楽

上記以外の地域での熱田系太々神楽は、現在のところ、手元に情報がありません。もし、何か情報がありましたら、是非メールにてお教えください。

高針(名古屋市名東区):
旧高針村庄屋 大原七右衛門の日記中より
   熱田加馬に付 村方 正金 二分
   熱田太々神楽 村方 正銀 三匁 嘉永三年九月廿三日
と記してあります。嘉永三年は西暦1850年にあたります。当時、高針村で大イベント(例祭)等があり、熱田神宮神楽座の神楽師を馬にて高針村へ招いたと思われます。

那古野神社(名古屋市西区):
「維新前は、特別の祭典のときに太々神楽を行った」という記録(西角井正慶著の神楽研究)があるようですが、詳細は不明。

成海神社(名古屋市緑区):
成海神社は、熱田の東宮の意として別称に依る。東宮太々神楽講、明治・大正の代に亘って近在の町々村々に当神社の太々神楽講が組織せられ、毎年2月、講社社員相寄り相集うて、神前に太々神楽が奉納され賑った。昭和に入ってこの事は廃され、記念碑・神楽面と共に遺されている。
参考ページ: http://www.geocities.jp/engisiki/owari/bun/ow100710-01.html

神楽歌はこちらのページを見てください。



 トップページに戻る ページの先頭へ 掲示板 ・ メール