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この曲は、亀崎の古浦坂(=大府の笹波)と密接な関係のある曲です。というか、周衛は古浦坂のアレンジバージョンの性格が強く、ほとんど元は同じ曲だったと言っても良いでしょう。
亀崎の周衛の2〜5行目は、亀崎の古浦坂(=大府の笹波)の1〜4行目とほぼ同じです。周衛の6行目は古浦坂の5〜6行目を1行に縮めたもので、周衛の7〜8行目は古浦坂の7〜8行目と同じです。周衛の1行目は、2行目をちょっとアレンジしてイントロ代わりに最初のところに余分にくっ付けたもので、フレーズの長さが通常よりも1小節分(4拍)足りない不規則なものです。
この周衛の1行目のアレンジの仕方は巫女舞の曲としては考えにくく、笛が先に吹き始めて後から太鼓がついてゆく、巫女舞が廃れてしまった名古屋市内の方で最初に成立したのではないかと思われます。それが、船橋政一氏・幸村元一氏などによって、亀崎や知立に伝わっていったのでしょう。
大府では、横根町の楽譜には津島下がり裏として載っていますが、中川三十昭氏採譜の長谷川佐一版楽譜には載っておらず、長谷川佐一氏の音源も見当たらないことから、長谷川佐一氏の段階では、大府にはこの周衛という曲は伝わってなかったと思われます。というか、その代わりに笹波があったということでしょう。
文献(半田市誌)では、「笠寺の津島囃子=亀崎の周衛」ということになっています。しかし、最近は笠寺で吹かれることは無く、私も笠寺の津島囃子なるもののメロディはわかりません。その文献が書かれた時期(昭和59年)には、亀崎では古浦坂(=大府の笹波)は吹かれていなかったと思われるので、笠寺の津島囃子は、笹波の方にもっと近い可能性もあります。
御神能のページにも書きましたが、このように、亀崎における御神能・周衛・浦坂・古浦坂の4つの曲は兄弟曲であり、出来町「河水車」の帰り囃子から派生した可能性が高いです。
演奏上は、1行目が短いので、太鼓は注意が必要です。 |