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宮流神楽の分類


 サイメ流とカンタロウ流

いろいろな地域の宮流神楽を聞いてみると、実は音楽的に2つのグループに分かれています。ひとつは菊田斎女〜熱田〜笠寺と伝わった系統ですが、もうひとつは本家本元が消え去ってしまったようなので歴史的なことははっきりしません。ただ、ここでは古老の話を総合して、前者をサイメ流、後者をカンタロウ流(サンタロウ流かもしれない)と呼ぶことにしましょう。

サイメ流とカンタロウ流の一番大きな違いは太鼓で、多くの曲で大太鼓の入る位置が2拍分ずれています。これは、サイメ流は太鼓の規則性及びメロディとアクセントの整合性を重視しているのに対し、カンタロウ流は必ずフレーズの終わったあとに大太鼓を入れ、フレーズの間と大太鼓の整合性を重視しており、ずれているというよりもコンセプトの違いです。

聞いてみると、サイメ流の方が曲の構成感がはっきりして重厚な感じであるのに対し、カンタロウ流は流れるように曲が進行して行き、自由で洗練された雰囲気が感じられます。

 太鼓の違い

抽象的な言い方をしてもわかりにくいので、楽譜を見てみましょう。この曲は、笠寺(サイメ流)では三みつ下がり、亀崎・知立(カンタロウ流)では御神前と呼ばれている曲の1行目で、宮流神楽が伝わっているところにはほとんど必ずある曲です。曲の詳細は御神前/三みつ下がりの解説ページを見てください。音源もそこからリンクされています。





サイメ流とカンタロウ流では、こうやってメロディの骨格だけを見ると、この三みつ下がり/御神前の1行目は、太鼓の位置が2拍ずれているだけで全く同じです。もちろん、実際にはシャレ(装飾音符)が入るのでメロディも微妙に違います。

まず、宮流神楽の基本的なリズムの特徴は、
 1. 最初と最後に大太鼓が入る。
 2. 第2小節3拍目と、第4小節1拍目に強いアクセントがある。
 3. 第1小節4拍目、第2小節2拍目、第3小節4拍目にも、多少のアクセントがある。

これに加えてサイメ流では、第3小節1拍目に強いアクセントがあり、それが大きな特徴になります。メロディラインもサイメ流で言う第3小節1拍目の5の音と第4小節1拍目の6の音にアクセントがあり、メロディともよく合っています。また、第3小節1拍目にアクセントがあることによって、フレーズが前半(1・2小節)と後半(3・4小節)に明確に分かれ、曲の構成感がはっきりします。

それに対してカンタロウ流は、第3小節には基本的にあまりアクセントは無く、流してしまう感じです。本来メロディには第3小節3拍目にアクセントがありますが、太鼓はアクセント無しです。
また、サイメ流は基本的に決まった規則的な打ち方しかしないのに対し、カンタロウ流では、第1・第2小節は大太鼓の後ろは自由に打ってかまいません。そして大太鼓は必ずフレーズとフレーズの間に入るように入れるので、メロディの長短に合わせて、この3小節目を2拍にしたり6拍にしたりして調整します。

カンタロウ流の御神前や神明の結びに入る位置が2拍分前にずれているし、サイメ流の方が形式美を追求しているし、おそらく、サイメ流が最初からあった基本的な姿だと思います。多分、カンタロウ流は長唄など複雑なリズムを持った音楽の影響を受けた人が、後から作り出したものだろうと、私は考えています。

 その他の音楽的な違い

六の音(呂音の●○○○●●●)の1音上の音ですが、六に続く場合はどちらの流派もメ七(呂音の◎○○○●●●)を使います。しかし、音節の最初に出てくる場合は、サイメ流では#0(◎●●●●●●)、カンタロウ流では八(呂音の○●●○●●●)を使うようです。八は#0よりも微妙に音程が高いです。

カンタロウ流の地域では、大府以外ではお囃子は伝承されていないことが多く、俗謡系のものなどは、神楽に編曲されて取り入れられてしまっている傾向が強いです。サイメ流の地域では、神楽とお囃子はそれぞれ別々に伝承されていることが多く、お囃子もお祭りの曲として重要な位置を占めています。これは、サイメ流の地域では巫女舞がすたれてしまっていることが多く、カンタロウ流の地域では巫女舞が残っていることが多いことと関係していると思います。
笠寺・大高・中根などの巫女舞が全く残っていないサイメ流の地域では、笛が先に始まり、後からついて太鼓が始まるパターンが普通になっているようです。

サイメ流のお囃子の有松(早目)は、カンタロウ流の宮流神楽の新車に相当しますが、太鼓のリズムも全く異なり、よく聞いてみないと元が同じであることがわかりません。この有松(早目)と新車はそれぞれの流派で重要な曲で、どちらの曲が伝承されているかによって、サイメ流かカンタロウ流かを判断できます。

カンタロウ流の地域には、亀崎の御神能(=知立の出来間地、比良の六本返し、志段味のぼんてんばやし、大府の曲名不明)が伝わっていて、技術的に簡単なのでよく演奏されているようです。この曲は、出来町の山車で演奏されている帰り囃子を編曲したもので、周衛(亀崎、知立の洲恵)、浦坂(亀崎)、笹波(大府、亀崎の古浦坂)など、そこから派生した兄弟曲もカンタロウ流には伝わっています。
一方、これらの曲はサイメ流の地域にはほとんど伝わっていないようで、笠寺の棒専囃子(=浦坂)も現在吹く人がおらず、唱歌譜が残っているだけの状態です。譜を見るかぎり、太鼓は神楽ではなくお囃子です。

 地域と歴史

地域的にみると、サイメ流は名古屋市の大部分(熱田区・南区・緑区・瑞穂区・中川区・天白区・名東区)、日進市などですが、カンタロウ流は、知多半島中北部(東岸は亀崎まで、西岸は内海まで)、三河西部(大府・刈谷・知立・豊田)、名古屋市北部(守山区・西区)などに広まって・「ます。つまり、熱田・笠寺を中心に半径5〜10km以内はサイメ流、それ以上離れた地域はカンタロウ流といった構造です。

カンタロウ流に関する歴史的なことはほとんどわかっていませんが、菊田斎女がまだ活躍していた明治時代にカンタロウ(またはサンタロウ)が中心となってできた流派のようです。その後、大正時代の頃に名古屋市内にいたコンドウエンジロウという人が上手で、多くの弟子を育てました。船橋政一氏は名古屋の伏見にある春日神社で笛を習ったという話もあるのですが、それとの関係ははっきりしません。

主だった名人としては、船橋政一(明治34年ぐらい生まれ)は半田市亀崎で、幸村元一(明治37年2月25日生まれ)は知立や日進で活躍し、この2人はコンドウエンジロウの弟子です。他に、大府には長谷川佐一(明治31年11月23日生まれ)、知立市八橋には高井錦一(明治35年ぐらいの生まれ)など、多くの名人の名が知られています。ただ、この人たちの上の世代がどうだったのか、どう繋がっていたのかは、今となっては闇の中です。

船橋政一氏は名古屋の大須にある春日神社で笛を習ったという話もあるのですが、そこでコンドウエンジロウ氏に習ったのかは不明です。また、長谷川佐一氏の師匠はコンドウマサジロウという人ですが、名前はよく似ています。ただ、長谷川佐一氏も幸村元一氏も知立神社神楽保存会の会員でしたから、そこで兄弟弟子という話が残っていないので、多分別人でしょう。

半田市亀崎にはいわゆる宮流神楽の他に各組に打ち囃子があり、宮流神楽の曲を編曲したものになっていまが、そのメロディや太鼓を聞いてみると笠寺に近く、サイメ流から派生したと考えて良さそうです。田中組の打ち囃子のタカと呼ばれる部分などは、熱田・笠寺の早道という曲の後半と全く同じに近いです。でも、現在の亀崎の宮流神楽は基本的にカンタロウ流です。
亀崎に最初に神楽を伝えた鏡味右内は熱田神楽宗家に近い人ですから、メロディや太鼓はサイメ流であった可能性が高いです。各組の打ち囃子は、その時点で伝承または編曲・派生したものではないでしょうか。そしてその後、船橋政一氏のもうひとつ前の世代ぐらいでカンタロウ流が伝わり、現在はそちらに変わってしまったのではないかというのが、私の推測です。

また、神明神楽と神明神楽の裏(神明・し)との関係ですが、おそらくずっと前は神明神楽には笠寺系の中助部分が基本的にあったのだと思います。あとから、その中助の部分を分離独立させて、神明神楽の前半を編曲したものをくっ付けて曲としての体裁を整えたのが神明神楽の裏と思います。
神明神楽は高音になる直前の部分は、サイメ流の太鼓だと自然に高音部に入れるのですが、カンタロウ流だと2拍分調整が必要です。逆に、神明神楽の裏は、カンタロウ流だと自然に高音部に入れるのですが、サイメ流だと2拍分調整する必要が出てきます。このあたりから考えて、神明神楽の裏は、カンタロウ流の人が考え出したのではないかという仮説も成り立つと思われます。


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